まあ、馬を鹿と言い張るのが権力の行使ですから。
麻生さんの大器振りもすばらしい。
NHKの比類のなさも誇りです。
日本相撲協会の寝技も誇りです。
「私は、貴方とは違うんです」とたしなめる宰相も。
「もっと勉強して来てほしい」、あげくに
「もう君たちには答えない」と世間水準の低さに
悲鳴を上げた宰相は少なくない。
いろいろ深く考える人は、世間が付いて来ないと
苛立ちを覚え、ますます孤立しますね。
こうなるとまず理解が(正しくは、相互理解ですが)
できなくなりますね。
政治家や作家に限らず,
虚空に立って思索する人は
多いようです。科学とはずいぶん違う世界ではない
かと思いますが、どうなんでしょう。
「忘れられた思想家」なんてのもあったはずですが・・・・。
とにかく書かれた文章(つまり和泉式部日記)を読んで、
清しくきっぱりとした印象を持ちました。気持ちの
さっぱり感を感じました。気持ちの中身(女性の
愛情がどうこうという)ではなくてです。
理屈だと、別の道もありえるぞと思ってしまいますから。
理屈が一本道しか許さないということはないでしょう。
理論がまとまるということは、まとめるだけの条件を
設定したからだということです。こころへんのことを
よく了解したと感じられると、あとは気持ちのあり方
ですね。つまりさっぱりした感じを与えるのも、
この了解が私にはついたからだと言えますね。
理屈にうるさいというときには、どうも(私個人の
感じ方ですが)何の前提条件も付けないと、
ことさらにことわる人が多いように思います。
つまり、他に答えがないでしょうと押しつけてくる
のですね。条件があると、私は違いますからと
弁解の余地を相手に与えてしまうと怖れるのでしょう。
こういう議論の仕方には、閉口するしかありませんから。
女はその後、物のみあはれにおぼえ、歎きのみせらる。
とくいそぎたちたらましかば、と思ふ。(こんなことなら
もっと早く宮の邸に移っていた方が良かったかも、なんて
実に女性らしい=というと非難されそうですが。
とにかく事態はいよいよ切迫してきます。)
(12月18日に宮がやって来て)例の、「いざ給へ」
とのたまはすれば、(行動が始まります。でもまあ、
今日だけだろうと、でも付き合うか、とすると、
誰か付け人を一人ぐらいなら連れて来てもよいよと
言われる。)・・・・さればよと思ひて、なにかわざと
だちても参らまし、いつ参りしぞと、なかなか人も
思へかし、など思ひて、(こうして宮の邸(南院)
に移ったのですが、宮の奥さんは結局三条の妃
おねーさんの忠告もあって邸を出て実家=藤原
済時(父は師尹、忠平の子で師輔、実頼の兄弟、の子供、
道長に従う)の家に戻ってしまう。それでも、まあなんとか
二人はラブラブで過ごすらしい。特に敦道は得意
満面だったらしいが。年下の恋人に和泉さんは、
実際のところはどうだったんでしょうね・・・・)
しかし、彼女の心がどうこうの前に、いや私が
言うのではちょっと何が何でも、無理ですから
ね・・・、この時代の考え方、人生の目的、
価値観、で硬ければ、いったい何を良しとして
生きているのかを考えると、(突然ですが)
エンゲルスの忠告、いやマルクスの忠告ですか、
「われわれの従来のすべての歴史書は、とりわけ
18世紀に侵すべからざるものとなった不合理な
前提から出発している。その前提とは、文明と
ほとんど同時期に生まれた単婚制個別家族が
結晶核であって、このまわりに社会や国家が
徐々に付着してきた、というものである。」
(エンゲルス 「家族・私有財産・国家の起源」
岩波文庫所載)
そういえば、NHK「篤姫」でびっくりしたこと。
徳川を家族、大奥の人間を家族、という台詞で
すね。見事な脚本家の力量かとも疑います。
数年前の「新撰組」でもこの手の創造はあったので、
天下のNHKだとしますが。
(10月10日ほどに)おはしたり。奥は暗くておそろしければ、端近
く
うち臥させ給ひて、あはれなることの限りのたまはするに、かひなくは
あらず(共に語ることのできる情感を持っていると認め
た)。・・・・・・
あはれにおぼされて、女、寝たるやうにて思ひ乱れて臥したるを、
おしおどろかさせたまひて(揺り動かして起こされて)、
時雨にも 露にもあてで 寝たる夜を
あやしくぬるる 手枕の袖
とのたまえど、・・・(気分は無性に悲しくて返事もしないで涙を
流していると、宮は言っちゃったのですね、とうとう。)
「いかに侍るにか、心地のかきみだる心地のみして。
耳にはとまらぬにしも侍らず。よし見たまへ。手枕の袖
忘れ侍る折や侍る。」とたはぶれごとにいひなして。
(こうなってくると、まあ頼もしい、いや不安だ、と
女心と男心がゆれますね。この後「手枕の袖」をキーワードに
歌を詠み恋愛が深まって行く。しかし真剣になれば
悩みも増える。難関は双方の疑心でしょうね。そしてよし行こうかと決
心するが)
この宮仕へ本意にもあらず、巌の中にこそ住ままほしけれ、
(古今集に「いかならむ 巌の中に 住まばかま
世のうきことの 聞えこざらむ」による文)又うきこともあらば
いかがせん、いと心ならぬさまにこそ思ひはめ、猶かくてや
過ぎなまし、近くて親はらからの御有様も見聞え、
又むかしのやうにも見ゆる人(かつての夫橘道貞か)の
上も見さだめん、と思ひ立ちにたれば、あいなし。
(いやあ、現実的ですね。ほんとしょうがないな)
かくいふほどに、年も残りなければ、春つ方(宮の
邸に移るのは来年の春か)と思ふ。(11月1日か、
雪がよく降っている日に、取り止めのないことを
歌にして贈り合う。そんなある日雨が激しい夜
にやって来て)(取り止めのない話しをしていると)
「かしこに(宮の邸)ゐてたてまつりて後、まろが
ほかにもゆき、法師にもなりなどして、みえたて
まつらずは、本意なくやおぼされん」と心細く
のたまうに、(どうしたことかと心がふさがって
泣けてくる。外は雨。とろとろとまどろんで、
今日はどうも様子が違う、素直に話しができ
そうなので、かねての出家の話しもしてみようかとも
考える。夜が明けると宮は帰って行く。
ここからはもう恋愛時代ではなくなって来る。)
ややこしついでに、日記の先を書いてしまうと、
恋心たっぷりの和泉は積極的に恋愛し、ついには
敦道の呼びかけに応じて彼の邸に入って仕えるのであるが、
彼の正妃は姉の勧めもあって邸を出てしまう。それでも
かまわず二人は暮らすが、邸が火事にあって住居を移しなど
して足掛け5年を経て敦道は死んでしまう。27才だ。
傷心の和泉は1年の喪に服す。このとき尼になりたいと
歌に詠んだ。喪が明けて一条帝中宮彰子に
仕えるのである。この後、これが機縁となって道長の信任
の厚い藤原保昌と結婚した。丹後の守となった夫について
下る。道長が、尼になる話しは?と聞いたとき「よさの海に
生ひやはすらん」と歌で答えている。この母を与謝に
訪れた小式部が「大江山・・・・まだふみもみず・・・」
と詠んだのですね。
ちょっとそこらへんで見たことどもを集めただけで、
知ったかぶりのつもりはない・・・・・でも・・・・
さて日記に入りますが、
「夢よりもはかなき世の中を歎きわびつつ明かし暮らすほどに、
(1003年4月10余日に)・・・近き透垣(すいがい)のもとに
人のけはいすれば、・・・・故宮(為尊)に候ひし小舎人童・・・
(「敦道さんをたずねたら、よく行くのか、それなら
今度これを持ってあなたをたずねてほしい、と言われまし
たので」と、)橘の花を取り出でたれば、・・・・はかなきことをも、
思ひて
薫る香に よそふるよりは 時鳥
聞かばや同じ 声やしたると (なんせ兄弟だから声がね)
と聞こえさせたり。(宮は離れたところに隠れていたが、
この歌を書いたのを読んで,返事に)
同じ枝に 鳴きつつをりし 時鳥
声はかはらぬ ものと知らずや
と書かせ給ひて、賜ふとて「かかる事、ゆめ人にいふな。
すきがましきやうなり」とて入らせ給ひぬ。(こうして二人の
付き合いが始まる。何度も宮が夜やって来る。5月になると
うわさも広がってくる。非難する声が多い)
(敦道が邸から和泉のところへ)おはしまさむとおぼしめして、
薫物(たきもの)などせさせ給ふほどに、侍従の乳母参上りて、
「出でさせ給ふはいずちぞ。このこと人々申すなるは。・・・・
召してこそ使はせ給はめ。かろがろしき御歩きは、いと見苦しきことな
り。
・・・大殿(道長)にも申さん。・・・」(と文句を言われてしまう。
が彼は)
「・・・はかなきすさびごとするにこそあれ。ことごとしう人は
いふべきにもあらず」とばかりのたまひて、・・・・
(いろいろ思案して二人ともちょっと臆するのか疎遠になってしまう。
しかし思いは募り、付き合いが深まってくる。7月、8月、9月と過ぎ
て)
(舞い戻ってしまいました。閑話復題ですね)
和泉式部日記に(私が)入るには、やや
こしい人間関係を知っておかなくてはな
らないので厄介です。
紫式部は藤原氏。良房(忠仁公)の兄弟
良門の5世の孫である。つまりは冬嗣の
子供の子孫になる。和泉式部の父は大江
雅致(まさむね)で、冷泉天皇の皇后昌子内親王
に仕えたが、母も内親王の乳母だったらしい。
冷泉天皇は村上天皇の子供である。弟が
円融天皇。村上天皇が藤原師輔の娘安子との
間になしたのがこの兄弟である。冷泉天皇は
師輔の子伊尹(これただorこれまさ)の娘懐子との間に
花山天皇等を、また師輔の子伊尹の弟兼家の娘超子
との間に三条天皇、為尊親王、敦道親王等をなした。
超子の妹詮子は円融天皇との間に一条天皇を
もうけている。この一条天皇は「私は人材に恵まれた」
となかなかの存在であったが、三条天皇はどうも
出来がよくなかったらしい。しかし三条、為尊、敦道の
三兄弟は容姿端麗であった。さらに敦道は三兄弟のなかでも
最も芸術的才能に恵まれて和歌漢詩をよくしたという。
さて、冷泉の皇后昌子内親王が病を得て
和泉式部の夫橘道貞(和泉守、どうも夫は単身赴任らしい.
子供は小式部)の邸を借りていた父雅致のもとへ移り住んだが、
一月余りで亡くなってしまった。999年12月1日である。
継母ではあるが昌子に親しく仕えた為尊は、それまでに
和泉式部と出会い恋愛関係にあったが、
昌子の見舞いで父と共にいた和泉との関係は発展したはず。
でも彼の性質から、夜の外出が激しく(女通いでしょうね)
流行病にもかかわらず控えないで亡くなってしまった。
1002年6月13日、26歳であった。正妃(藤原伊尹の娘、
冷泉妃懐子の妹)は尼になってしまう。
ここから日記が始まることになる。
つまりショックでふさいでいる和泉式部を為尊の弟
敦道(23才)が訪れるからですね。彼は師輔の弟師尹の子
済時の娘と結婚しています。この娘の姉は三条の皇后です。
ここまででも、本題に入らない・・・・、入れない。
ややこしい人間関係だが。
31日の朝日新聞朝刊に小林慶一郎さんの論文
「けいざいノート 『金融危機が与えた宿題』」が
opinionとして掲載されました。経済学は現実に
無力か、あるいは新しい理論生む契機に、と
主題が掲げられていました。経済学の発展
における最近の動向という最新経済学情報、
もしくは最先端経済学報告とでもいう位置
付けでしょうか。
でその最新知識を考えてみました。
貨幣の公共性が問題であると小林さんは
指摘するのですが、どうも良く理解できません。
強欲資本主義が闊歩するのも貨幣がなんの
制限もなく大きな資本の欲にしたがって動き回る
ことが経済を危機に落したのだ、とする前提
から出発して論を重ねているように感じます。
いまさらとなっていた近代経済学=ケインズ
経済学は市場を支える公共性を全部政府に
帰す。一方現在の標準経済学=新古典派
経済学は、市場には支える何かが必要だと
はまったく問わない。しかし市場の交換媒体
が貨幣であることから、「貨幣の公共性」を
考えなくてはなるまいと指摘します。
どうも私は納得できないのです。貨幣現象を
しっかり把握できない、思いの通りに
制御できない、危機を避ける方法が見つか
らない、と結論付けるのがまず良く理解できません。
貨幣現象はどのようなものか、なぜ起こるのか、
の解明を求めるのが進むべき道ではないかと
考えるからです。
そして、市場なる場の力学がまるで解明されて
いないという観点がないように感じます。
そもそも公平平等な市場、あるいは市場の
成立以前の力学に釣り合いなどという
前提は存在していないのだとの公理を置く
理論もある、いやあった、このことへの反省が
ない。ということは、別の理論で進むだけと
しているに過ぎない。私からみれば、経済学
ではない。経済学は成立していないと。
朝日新聞が、経済学への無知・無能力を
100年に一度の「自然現象」経済危機への
あたう限りの挑戦を免罪符にして、すりかえる
ための記事掲載でなければと、邪推をして
しまいそうですが・・・・・。ならば、二重に
経済学を貶めていると考えるのです。
若き経済学者よ、立て!燃えよ!です。
各党の政策の違いを、細かな言葉の上で
取り沙汰することは、政策の実現を図る上では
ブレーキになるでしょう。
表と裏ほどの違い=でもくっついている、
右へと左へほどの違い=将来どこまで離れるのか、
右と左の違い=今は離れていても目指すは同じ所、
水と油ほど違う=今おなじ課題解決にとりくめないのか、
こう言うことの確認や議論に政治言論は熱心でない。
同じ目標なら、同じ解決策なら、
どこが一番熱心なのか、その熱心さを競う、
その競争を判定して欲しいと(国民に)
求める熱意がない。飽くまで、細かな
一字一句にこだわって、違いを
強調し、優劣を決めようとする。政治家がそうなら、
ジャーナリズムが言葉の違いにとらわれないように
論議を進めれば良いのだが、政治家以上に言葉に
とらわれている。熱心さを競わせるよう煽れば良い
だろうにと思いますが。
役所言葉をあれほど槍玉に挙げてきたのに、
政治家の熱心さを比べる議論を避け、
読み誤りを咎めてしたり顔するだけと、
力を失った言葉の微細な違いにしか
言説を生めない。せめて政治家には
日常の言葉を使えと言い、自身は難解な
漢語を駆使して宙に舞う方がよいとしている
のではないか。言霊とは、難解な言葉に
宿るものかもしれないからか。
政治家が支持者を相手にどれほど日常語で
演説しているか。メディアが政治家に課している
言葉の二重性に気が付いて、メディアの方が
変換のうまい実現の苦労をすべきではないか。
メディアに出てくるスポーツ選手の言説の
巧みさにも私は言葉の二重性を見る。結局
選手の言説に意味を認めず、パフォーマンス
から感じられる当たりの良さに、売りたい双方の
思惑が一致するからであろう。
どうも私の関心は、個人と組織の関係に
集中するらしい・・・・。
生活防衛は、共産党や社会民主党、そして
民主党、公明党にとっても看板政策です。
同じ政策なら、どのように協力を得るか、
そのためにどれほどのリーダーシップを発揮
するかを訴えたら大きな希望を与えられる
だろうに、と思いますが、そのような論理
にはならなかった。
一般に、各省庁が政策を立案するので、
首相演説はそれらの寄せ集めになるのが
普通です。総理大臣は、それらの色づけさえも
あまりできない。大統領的総理大臣を実現
したいとの思いが首相の周囲には強いようで、
実際ずいぶん組織が改編されてきている
のだが、「一日署長」的大臣がいまだに
公言されているようでは、総理大臣の意欲は
アメリカの大統領のようには発揮できまい。
小泉さんには国民こぞっての支持があったが、
どれほど小泉さんの本意に沿えたかはまた
別問題であると私は考えている。首相になる前に
小泉さんが言っていた政治目標と実際に行った
政治とはずいぶんとかけ離れていたと私は
思っています。
アメリカは、どれほど誠実に問題に向かうかが
問われます。日本は、いかに政策が良いかが
問われているかのようです。でも、政策の違いが
どれほどあるのか不明です。言葉の違いには
たいへんうるさいのですが、目指す方向、やり方、
現在の状況、目的(克服すべき問題設定)を
確認した上で、広く協力を求める態度はとりません。
とる態度はまるで逆方向です。どの勢力が力を持つべきか、
覇権を握る勢力になびく、つまり勝ち馬に付く
ことが政治家の要諦で、勝ち馬がどのような政治を
行うかは、その勢力の中の「山分け」で
決めていけば良いのです。勝ち馬に付かない政治家は
その存在の価値を売り込めば良いだけです。
政治家の地位を守ることが目的だからです。
ここに官僚がつけ込む隙がありますね。
演出方法まで教示するのは序の口です。ときに
悪役さえ買って出ることもあります。
議員だけに監視せよと言うのでは、この構造は
揺るがないでしょう。勝ち馬に付きさえすれば、あとは
どうともなるという構造に十分対抗できる
力の育成が欠かせないのです。
安倍さん、福田さん、麻生さんは宰相のお子さん、
お孫さんです。田中真紀子さん、小淵優子さんも
宰相のお子さんです。小泉さん
小沢さんは議員のお子さんです。どんな
力学が働いているのか・・・・・。
期待された演説にはならなかったとの評価が
あるようですが、私は、伝統にのっとった立派な演説と
評価できるように思いました。チェンジ!と言う
言葉が、今までの悪い要素を全部ひっくり返して
良い社会にするとの印象を(勝手に、無制限に)
与えていたので、就任演説でその駄目押しを
すると期待されたのでしょう。つまり、いよいよ
世の中の改造が始まるぞと。どんな宣言から
始まるのか?と、ではないですかね。
黒人初の大統領の衝撃はどこかに吹き飛んだ
印象を与えたのが、まずずいぶんと計算されていた
ように思えます。建国の時を思い、独立戦争の
苦労と、同時に勇気を思い、南北戦争後の
リンカーン大統領の演説を思い、ケネディー
大統領の演説を思い返しています。
アメリカはまだ若い国だと希望を思い、
世界の覇者として、もう一度責任を持って
与えられた任務を担おうと呼び掛けている。
ブッシュ大統領の政治には、意識的に
深入りしない。
以上、派手さは無いが、標準的な演説で
論理としては、たいへんまとまっていて
強い意思が感じられるので、就任演説らしい
と感じます。
麻生首相の就任演説を載せた新聞を
失ってしまいましたので、語句をしっかり
点検できませんが、ざっと読んだ時の印象では
ずいぶん良くできているように感じました。
特に、生活防衛の部分は、下流大学卒業生
にも読み方を誤る心配のない平易な言葉使いで
解かりやすいと思いました。そして、こんなことは
めずらしいのではないかと思ったのです。
でもとにかく、この部分は言葉の平易さが
オバマ大統領と同じだと感じました。あとは、
これをどのような論理の中に置くかで、
力が感じられるかどうかが分かれます。
麻生首相の姿勢方針の評判があまり良くない
ようですが、オバマ大統領の就任演説と
比較されて評価されるというのはちょっと
フェアでは無いように感じます。同じ評価でも
外国のジャーナリストによる比較ではなく、また
日本のジャーナリズムの立つ位置が明確でない
点に疑問があると思います。もっと言えば、
ジャーナリズムはジャーナリズムで、欧米の
論と直接議論すべきではないでしょうか。
すべてを首相にゆだねてしまうのでは、
結局贔屓の引き倒し、無いものねだりになる
思います。あるいは内向きの意見だけになります。
首相演説の前に外国との議論があれば、それ
による論理的な筋や要求が明確になり、
それとの比較から演説を評価する観点が
生まれると期待できると考えますが。
オバマ大統領の演説の中では、私にはつぎの
言説が注意を引きました。
Today I say to you that the challenges we face
are real.They are serious and they are many.
They will not be met easily or in a short span
of time.But know this America:They will be met.
On this day,we gather because we have chosen
hope over fear,unity of purpose over conflict
and discord.On this day,we come to proclaim
an end to the petty grievances and false
promises,the recriminations and worn-out
dogmas that for far too long have strangled
our politics.We remain a young nation.But
in the words of Scripture,the time has come
to set aside childish things.The time has
come to reaffirm our enduring spirit;to choose
our better history;to carry forward that
preciuos gift,that noble idea passed on from
generation to generation:the God-given
promise that all are equal,all are free,and
all deserve a chance to pursue their full
measure of happiness.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Starting today,we must pick ourselves up,
dust ourselves off,and begin again the
work of remaking America.
光源氏が若紫を垣間見する場面から(私には適しませんが);
熱病の一種の「瘧(おこり)」の治療に北山へ向かう。
回復して、従者惟光を連れて垣間見に出掛ける。
体調のすぐれない老いた尼の勤行する姿を見る。
何人かの女房と童も見る。とそこへ10才ほどの
女の子が走り出てくるのを見る。尼はこの少女の
祖母で後見人であるが病身で兄の僧都のもとに
孫を連れて療養しているのであった。光はこの
少女に惹かれてしまう。なぜなら、藤壺に似て
いるからだ。藤壺は父親桐壺帝の妃であった。
で、若紫の父親が藤壺の腹違いの兄(式部卿宮)、
したがって若紫は藤壺の姪という設定です。
若紫の母親は亡くなっていて(その母が尼)、
式部卿宮には後妻がいますから、若紫は
継母のもとで生活するしかない将来がありました。
それが実現していないのは、式部卿宮が後妻を恐れて
引き取るのをのばしているからです。それを祖母が
うれいて、自分の死後のことを悩んでいるのです。
光は、藤壺の身代わりとして彼女を仕立てようと目論みます。
光源氏は、歌物語とは違い、唐突に盗むのではなく、
あたう限りの手を尽くして交渉するというやり方をとる。
つまり若紫の後見の人々に打診を繰り返すのである。ここに
作者紫式部の意思が働いていると見ることがで
きるのではないか。(とは、私の思いつきにすぎませんが)
それでも光の情熱の強さには、周囲の人はみな
驚きあきれる。つまりまだ幼すぎて結婚は無理ですと。
しかしほどなく尼が死ぬと乳母を強引に説得してついに
若紫に接近して盗み取ってくるのである。さらに、
それまでに光源氏は藤壺に忍んで妊娠させる
(がそれは露見せず、桐壺帝の子供として
出産され、後継となる)という不祥事を起こすのである。
この不祥事は、後々=つまり現代史において、大きな
問題となる。つまり源氏物語は大東亜戦争の前は、
まずい物語であったわけです。こんなものを大学で
研究され講義されるなんてことは認めることがで
きなかった。が戦後逆にブームになる。最近では
不倫や性の自由化の象徴にもなる理由でもある
のでしょう。(しかし、どうも時代を越え過ぎではないか
と思いますが・・・・。昔も今も同じ倫理観で見てしまい
過ぎているように私には思えますが・・・・・)
私は、作者の仕掛けの方に関心がありますね。
つまり、道長がどのように考えたか、けっして
否定的でなかった(であるから物語りは書き綴られた)
はずですから、道長といろいろ精神的な
緊張があったと想像します。
古典教材の解説を通じて、。偏向した性の枠組みが再
生産されている。古典教材を通して教育される内容が、
拉致加害者の幻想(被害者は喜んでいた、拒否していない、
など加害者に都合の良い解釈)を肯定する。学校教育
だけではない、注釈書に綴られるアカデミズムの言説もまた
同じ役割を結果的に果たしている。
このように指摘する立石さんの論には、目を見開かれた
思いがしました。これこそまったく予想もしなかったことでした。
男と女のことは、古典を読めばいっぱい出て来るから、
大学に入ってから興味があれば読んだらええ、とは
高校のとき、いや中学のときか、国語の先生だけでなく、
数学など他の科目の先生からも何度か耳にしたこと
です。何を言っているのか、と当時は聞き流していましたね。
ここまでが前半です。後半は「源氏物語」の略奪婚、とくに
紫の上に関する論議です。
まずは当時の男女の出会いと結婚に関する知識である。
女の顔を見るまで・・・・・
女の噂を聞く。数度の手紙のやりとり。
邸に上がり、女房を介しての会話。
許されて、女の声を聞く時も、物越しの会話。
最後は、几張の帷子をめくって奥に入る。
夜を共にするが、灯かりは暗く顔は見えない。
結婚するなら・・・
三日通って誠意を見せて「所顕し」の儀式をもって
晴れて婚儀が整う。男は日が昇っても帰らず、
やっと顔をしかりと見ることができる。
これでは色男はやってられない。
不良はこんなことはやらない。男の面目が
立たんやないか。男同士で競い合う、詰まらぬ
意地の張り合いもない。
「垣間見」がよく行われます。貴族のお姫様を
ちょっと盗み見することですが。
偶然見掛けることから、積極的にその機会を
伺い、実行するのです。引っ掛けるのとは違います。
いや、ちょっと言葉が適当でない。
上品さが必要なんですが、現代とは違いますから。
日記文学と物語文学。文学の発展史を考える
こともできるのかもしれませんが、そんな難しいことは
私にはとてもできませんし、また関心もありません。
ただ当時の人々の関心とどのような考え方なのかが
分かればたいへんおもしろいと思うだけです。
その意味では、「古今著問集」や「今昔物語」
はおもしろいものです。高校生のとき、ときたま
図書室で開いてみることはありましたが、通して
読んだことはまったくありません。でも関心はあります。
さて、立石さんの論議の結論はよく理解できません。私は
その議論より、いろいろと並べられている材料について
知らないことばかりということもあって、たいへん興味深く
読みました。予想とは違うというのも、論より対象に
興味を持ったという意味になりますね。
もっとも大きな論点は、
①正式な手続きを踏まない婚姻を通して、
「物語」は何を語るのか。
女性のアイデンティティをめぐって、
物語の洞察を対象化する。つまり、
流動化するが、やがて自己回復して行く過程がある。
②どのように叙述されるか。
語ろうとする欲望は、ロマンチック
に粉飾される。男の愛情の深さとか、
男のヒロイズムに回収されやすい。
しかし嫁盗みを、(敢えて)拉致と
いう言葉に置き換えたらどうか。平安文学の
「男が女を盗む話」の語られ方を対象化する
ことは、現代の「女性拉致をめぐる言説」を
捉え返す契機となるに違いない。
としています。
このような論点は、私はまったく予想もしていなかったことでした。
伊勢物語(芥川段)や大和物語(安積山段)にある盗みは、
高校の教科書に載せられているそうです。私は高校のとき
経験していません。つまり歌物語というジャンルがある
そうで、短歌をもとに、状況を創作してひとつの物語を
構成するのだそうです。ほどよい長さで話しが完結して
いるので、教科書に載せて教材とするのに適している
のだそうです。古典教科書は総じて「男が女を盗む話」を好む
としています。そして盗まれて嫁になった女が死んでしまう理由を
問う設問がつくのだそうです。ここに立石さんは、疑問を呈します。
さて源氏物語の方であるが、いまだに難しいと怖れて
読むことができないでいますが、柴山芳隆さんの「式部むらさき」
(文藝書房の文藝書房文庫08年3月発行 単行本は
01年に同じ文藝書房から発売されている)を読みました。
源氏物語を作者式部の独白として作品にしたものです。
「紫式部日記」をてこにして、物語を進める紫式部の
考えを推し量っています。物語の構想だけでなく、
式部をとりまく人々を描いていますので、なにも知識の無い
わたしにはちょうどよい「源氏物語」案内となりました。
「枕草子」「和泉式部日記」だけでなく、「栄華物語」の
(大江匡衡の正妻)赤染衛門や「往生物語」の源信も
同時代である(だけでなく、大きく影響していること。
また式部と交流?があったことなど)ことを教えられました。
さらには「蜻蛉物語」とその作者(藤原)右大将道綱の母
に親近感を持ったことも(これは推定かも?)。
さらにまた見つけました。まあ、本屋を覗いていて偶然
見つけただけですが。中公新書1965 立石和弘さんの
「男が女を盗む話(紫の上は「幸せ」だったのか)」を
読みました。
当時は一夫多妻制だし、妻訪い婚だし、略奪婚も
ありだったかなあ、なんて軽い思いで、この際読んでみるか
と買ってしまったのです。それに、エンゲルスの書いたのと
比較もできそうだしと考えてもみましたね。まあ、表紙の
題名だけで読もうとしたわけですね。でも読んでみると
ずいぶんと予想とは違っていました。先ず文章が難しい。
なんでこんなに難しい表現をするのかと不思議でなりません。
あとがきの1節を披露しましょう。
「本書には「男の幻想」という言葉が繰り返され、題名にも
「男と女」の対立が強調されているが、もちろんすべてが
ここに還元されるわけではない。関係性の実質は、相互の
社会的階層や、共同性によって方向づけられている。社会的
属性に依存して顧みず、幻想としての物語を他者に押しつける
放漫は、他者の内実を切り捨てることにもつながるが、
それを描く物語は、読者が生きる現実的な関係を映す
鏡でもあるだろう。物語文学のおもしろさ、そして怖さは、
王朝貴族社会を舞台として描かれた作品であるにも
かかわらず、現代に生きる私たちと、その社会を映し
出すところにある。読者もまた、無傷ではいられな
いのである。」
国家を縁の世界「有縁の場」、全体社会を「無縁の場」と一応考えて良
い。
でも、もっと良く考えれば、無縁は国家と国家の外の全体社会の両方に
またがる。
あるいは全体社会の外の公海や外国にさえはみ出す。このような無縁所
では、
たとえ国家の中にあっても(正確には国家と重なっていても)、国家の
外と
同じく、国家の警察権や法律が直接には適用されない。ここでは主従制
や
身分制などの「縁」の原理は働かない。その一方、ここは束縛のない
自由の場なので、有縁の価値観より経済原理が生のまま出現しやすい。
国家と全体社会の大きな乖離、全体社会の大きなコアであった無縁所の
全盛、これこそが500年にわたる中世という時代の特質である。
無縁所は4つの類型に分類される。
①絶対無縁所:境内都市や一向一揆・法華一揆の寺内町
②相対無縁所:幕府・守護・戦国大名など権力の承認がある。
東寺や上下賀茂社は御用寺社との中間的存在か。御用寺社と
はっきり言えるのは、六勝寺(白河にあった「勝」のつく6寺)や
京都5山である。
③辺境型無縁所:誰の領地でもない山野河海あるいは交通路
④無縁所内無縁所:高野山と比叡山の絶対無縁所の領域が
重なっていた和歌山の荒川荘の高野寺(高野山から追捕されると
叡山からの借金だとして叡山対高野山の争いに誘導するという
離れ業を駆使する輩も出て来ることになる)が例である。
しかしこの分類が後の発展においてそれぞれ別個の道を
たどったとかと論じることはない。網野説の批判(発展的
批判だろうが)に使われるだけだ。そして網野説の批判は
駈込みをめぐる点で厳しい。つまり駈込みは個人的なものか、
だとしても境内都市を形成するに欠かせない移民=流入民
、つまり小家族を含む生活者の移入(とその後の彼等の連帯)
とするかでまったく違うとする点である。」
ここらあたりで伊藤さんの話しは終えることとしたい。
とにかく面白いし、疑問に思う点がいろいろ出て来るし、
話しがあちこち飛ぶし、こちらが理解するには分散した
個所の話しをつなぎ合わす必要があるしと、しんどい思いもした。
それを、伊藤さんは「結局限りなく中世史大全に近づいてしまう。
ところが本書は文書と日記だけ(だから誰にもできますよ。
東大のサーヴィスをインターネットで利用すれば良いからです。
と言うのですね)を現代語訳しただけの、いわば
表面史だ。はたしてこんな大きな問題を、こういう基本的な
方法だけで解ききれるものだろうか?」と書いてすまし顔の
ようです。ずいぶんと挑発的だと思いましたね。
どうせなら送り火や葵祭り、あるいは陰陽道関係は
触れておいて欲しかったですね。
史観なるものは流行もあるでしょうし、必然的な
争闘の時代のものもあるはずです。しかし学問となると、
そして科学となると、たとえ決着は着かずとも、
公開性と議論の場を与えられてしかるべきでしょう。
さらには、証明や証拠に関する論理的な手続きを
前提にしているはずです。それらに疑義があると
主張されれば、その主張の妥当性は正当に
評価されるはずです。ただ「正当性」に議論の
余地を残すことが多いのも確かですね。いや、
ここに決着をつけさせない手段をとらせる
最後の余地=尻尾を見つけるしかないのですね。
史観か理性か。思想(派)か哲学か。
歴史家が研究意欲を高めるのが、ここに原因する
のかも知れない(といえば、お叱りをいただくか)。
やや揶揄的になったかもしれませんが、なにか
良く分かりませんが、ややこしい感情が伊藤さんの
書きっぷりから感じられてしまいました。そしてまた、
学問的ではないなと感じさせる書きっぷりを
強く感じました。この2つの違和感(普通の
啓蒙書は、もっと書く立場が解かりやすいのでは
ないでしょうか)は、互いに関係しているのか、
独立しているのかも分かりません。それがまた、
余計に違和感を高めるのですが。
がそれにしても、読んで面白かったです。
そうそうこんなことが知りたかったとあちらこちらで
思いました。がまた、どうも良く分からないなと急激な
論の展開に未消化の感を拭えない個所も多かったのでした。
で、結局ぐたぐたと書き連ねてしまったのですが、それでも
内容としては半分か三分の一ですね。
無縁所論に関して、最後に少し紹介しておきます。
社会の概念図を考えると、まず「全体社会」があり、その次に「国家」
がくるとする。国家は、領域内の人々の全生活を管理できるわけではな
く、またすべきでない。国家とは軍事・警察・裁判権を核として、
政治・行政をつかさどる機関にすぎず、国民生活全般をコントロール
するものではない。一方、人々の生活が営まれる場、及びその営みのす
べてを指して、「全体社会」と呼ぶのが普通である。全体社会は法や慣
習が予測していない現象に満ち満ちており、国家の尺度で測ることはで
きない。その価値観をあてはめることもできない。常に「国家と全体社
会は別物」ということを忘れてはいけない。けれども「国家=全体社
会」という図式は、実に陥りやすい思い込みで、おういう教科書的思考
が頭にとってはラクなのだ。中世とは、全体社会の中において国家が占
める割合が、もっとも小さな時代であった。
なお原始の「国家=全体社会」は、今日もなお幻想として生きている。
これこそ政府にとって理想の美しい国なのだ。云々かんぬん・・・(や
めておく)。
また、講義を聴講するに当たっての注意として、哲学
に関してつぎのように注意しているのも面白い。
「みなさんのなかに哲学のことをまだよく知らないという人がいたら、
わたしはその人たちに、理性を信じ、理性的認識を
手にいれたいとの欲求を持って、この世界史の講義に
出席してくださるようにおねがいしたい。もとめられているのは、
いうまでもなく、理性的な洞察ないし認識であって、
学問研究に向かおうとする人が主観的に手にいれたい
なと思うような、知識の集積は二の次です。
世界史に向かうに当たって、思考や理性的認識を
いまだ持ち合わせていない人もいらっしゃるかもしれない。
が、そういう人も、世界史のうちに理性が存在すること、
知と自覚的意思の世界は、偶然の手にゆだねられる
のではなく、明晰な理念の光りのうちに展開すること、
そのことだけはしっかりとゆるぎなく信じるべきです。」
理性をどのように考えるかでたいへん興味深いと思います。
「理性はおのれを糧とし、自分自身を材料としてそれに
手を加える。理性にとって前提となるのは理性そのもの
だけであり、理性の目的が絶対の究極目的である以上、
理性の活動や生産は、理性の内実を外にあらわすこと
にほかならず、そのあらわれが、一方では自然的宇宙
であり、他方では精神的宇宙(つまり、世界史)である。」
そして、歴史研究への態度を規定するのです。
「歴史研究の第一条件として、史実を忠実にとらえる
ことがあげられます。が、「忠実に」とか「とらえる」とか
一般的にいうだけでは、事柄ははっきりしない。自分は
史実をそのまま受け入れているだけだと歴史家が
する場合でも、かれは自分の思考の枠組みを持ちこんで、
それによって事実を見ています。とくに、ものごとを
学問的にとらえるには、理性がねむっているわけには
いかず、大いに思考を傾ける必要がある。世界を理性的に
見る人にとってこそ、世界は理性的に見えてくるのであって、
二つは互いに作用をおよぼし合うのです。」
個人の歴史、部族の歴史、国家の歴史などは、
自己および自己が属す集団の存在の様子や
生きざまを、誇りを持って、もしくは苦難を
克服する希望を持って理解するために欠かせない
ものと考えられます。司馬遷の「史記」は有名です。
「古事記」と「日本書紀」が果たして真の歴史書か
などと議論が沸くのも関心が高いからでしょう。
どの市町村にもわが町の歴史は編纂されています。
ヘーゲルは哲学的な世界史を論じるとして
先ず歴史の見方を三つに分類します。
①事実そのままの歴史;ヘロドトス、ツキジデス、
クセノフォン、カエサル
②反省をくわえた歴史;a通史(史料の編纂による)、
b実用的な歴史(過去の反省を現在に活かす)、
c批判を主眼とする歴史(歴史そのものではなく、
歴史的伝承や歴史的研究が真理かいなか、
信用できるかできないかの判断が主となるもの。
浮ついた想像力の織り成すありとあらゆる非歴史的妄想が
歴史の中に入りこむ可能性があるもの)、d概念区分にしたがう
歴史(いわゆる分野別の歴史で、近代になって多いに発達
したもの)
③哲学的な歴史;理性が世界を支配し、したがって
、世界の歴史も理性的に進行するという考え方が
哲学が歴史に向かうときの構えである。歴史の側から言えば
ひとつの前提であろうが、哲学にとっては、理性が、「実体であり、
無限の力であり、みずから自然的生命および精神的生命を
成り立たせる無限の素材であり、この内容を活性化させる
無限の形式である」ことがことが哲学的認識を通じて証明される
ということからして前提ではない。
付け加えるならば、②bにおいて、道徳的反省・教訓について
言っていることが面白い。「君主や政治家や民衆に向かって、
歴史の経験に学ぶべきだ、と説く人はよくいますが、経験と歴史が
教えてくれるのは、民衆や政府が歴史から何かを学ぶといったことは
一度たりともなく、歴史から引き出された教訓にしたがって
行動したことなどまったくない。それぞれの時代はそれぞれに
固有の条件のもとに独自の状況を形成するものであって、
是非善悪の決定も状況の中から行われなくてはならないし、
また、それ以外に決定のしようがない。世界的事件の
渦中にあっては、一般原則も、類似の出来事の記憶も、
なんの役にも立つはずがないからです。」
ずいぶんと遠回りをしてきた。しかしこれでも約半分、いや
1/3だろう。中世がどのような社会であるか、その活力と
実態について私が良く分からないからである。過去と未来、
歴史がうまくつながらない。理論ではつながる。理論というより
思想、いや教条かもしれない。これを私は知らない。そして
こんな歴史は学問ではない。科学ではないと思う。
このように表現すると、違和感を持つ人が出て来るだろう。
しかしどうもこのあたりの衝突が歴史学者の世界にはあるように
私は感じます。そして中世は武士の勃興だ、いや庶民の活躍だ
と論じられますが、寺社や寺僧は棄ておかれるままであったというのが
伊藤さんの主張ではないかと判断します。
寺社の変化と寺僧の実態、つまり経済活動の中心であり、
武士とはなにも皇族や貴族の地方へ移った武勇を誇る
家系にあるものだけでなく、武勇を誇る寺僧や寺社領内の
武士が大師(信仰)と主従関係を結ぶ形態もあり得た、ことから
成り立つ境内都市の存在が中世の中心的な存在ではないか、
このように考えられるようですね。
ただこのような考え方が「無縁所」を中心的な概念として
成り立つものかどうかが、もうひとつ良く理解できません。
縁を切って、新たに生活をはじめる。その場において
新しい縁を作る。これが新しい都市を作った。
なにか魅力が何もないということではありません。逆ですね。
縁という概念で社会は作られるのだとする哲学があるかもしれません。
が歴史学において、そうそう簡単に社会を作る概念が定義できるのでし
ょうか。
歴史というのであれば、家族、血族、部族、部族集団などから
解き明かす論が欠かせないように思います。
これではまるでマルキストになりますが、エンゲルスの
「家族・私有財産・国家の起源」岩波文庫白128−8
(原著初版は1884年だが、翻訳は1891年の原著第4版
です)のしっかりした理論的記述を読むと、どうも
研究者の恣意的な概念構成のほうに気をとられてしまうのです。
伊藤さんは、むろん「無縁所論」を示しています。網野さんの
理論への批判もしています。しかしこの無縁所論は哲学でしょう。
宗教にも大きく関係します。歴史学が哲学になってしまう点で
読むものに十分な解説なり説明がなされるべきではないかと
私は強く思うのです。
そもそも歴史とは何か。なぜ歴史を人は学ぶべきなのか。ヘーゲルは
ベルリン大学で「世界史の哲学」と題する半年単位の講義を5回
(1822−23、24−25、26−27、28−29、30−3
1)行った。
ヘーゲルの死後、弟子のガンスが講義草稿と聴講生のノートを
もとに「歴史哲学講義」を編纂して1837年に出版した。ヘーゲルの
息子が
その改訂版を1840年に出版した。(その訳本が岩波文庫青629−
9と630−0
として販売されている。これを読書会で現在読んでいるところです)
武士が国司を追い出し、荘園を支配するようになるかのように
解説されることが今までであったが、武士にも
寺社側の存在があり、王朝貴族の荘園は武士に支配されても
寺社の荘園はなかなか難しかった。
だいたい、武士が警察権を持つといっても、治安維持
などの社会の安寧に責任を持つようなものでは無い。
「検断得分」という逮捕すれば、追われた人の財は
掴まえた武士のものとなる権利があった。これを
悪用すれば、いくらでも財を増やせるのである。悪徳警察官
といったところだが、当時は当然とされていたのだ。
事実荘園の武士による侵略はなかなか進まない。
荘民が嫌がるものは、農繁期に課される労働徴発と
農閑期に軍役に駆り出されることだ。
寺社に逃げ込むのはかなり自然なことだ。逃げ込んだからといって
正義は回復しないが、寺社の中は自力救済の世界
だが、ある種大衆討議と自治の面もあるから
武士の統治下に暮らすよりよいとされる面もあったはずだ。
武士が政権をとって、幕府を開く。といって
どの程度の権力を持っていたのか。
平家の奢りは源氏の現実主義に正された。
北条氏の政権乗っ取りは足利氏の
武士階級の公正へと発展した。しかし
後醍醐天皇は天皇親政への野望捨て難く
南北朝の対立が起こってしまう。
私の荒っぽい理解ではこうなる。こんないいかげんな
理解ではとても歴史理解にはならない。げんに
自分自身で混乱して却って疑問が増えてきている。
南北両朝は、寺社の武力を傭兵的な軍隊として利用する。
そして恩賞を与える。これはこの時代の下克上を
代表することである。秩序破壊、権威失墜はこの時代の
特徴である。しかし現代まで続く伝統文化は、じつは
中世寺社に起源を持つものが多いのだ。
能の観世は興福寺から出た。
生け花は延暦寺末寺の池坊六角堂で始まった。
作庭や茶道なども寺社に始まる。
さらに寺社文化の第1位は日本語である。
日常語の多くが仏典から取られている。
寺院、いや仏教の民衆化に携わった中世の寺僧が
仏語を日常語に変えたのだ。
堺や一向宗の門前町あるいは京の町衆の自治など
という戦国末の自治都市には、中世の境内都市の自治
の歴史があったと理解できるらしい。(でもこのような理解は
私のええ加減なものかもしれないが・・・・)