訂正:昨日の書き込みで名前を間違いました。「与一」
ではなく「与平」です。すぐに記憶違いを起こします。
もう一つ。完全版と冠せられていますので、このことも
付け加えておきます。
さて、
この本の誕生には著者の並々ならぬ思いが
込められているらしいのです。「原本・あとがき」
(実はあとがきが2つあるのです。「軽装版・
あとがき」と。私の読んだのは、軽装版の方です)
から抜き書きしてみます。
「・・・・ところでこの物語は、長いあいだ背負っていた
荷物のようなものでした。最初に・・・「文藝冊子」という
同人誌を出した・・・・年二回発行・・・連載する・・・
第一号は、昭和四十八年七月に・・・第二号は
昭和四十九年の九月にやっと・・・・・それっきりで
・・・「文藝冊子」は姿を消しました。・・・書きつぐ意欲を
なくしていた・・・・昭和五十八年に、新しい同人誌
「鬼ケ島通信」が出る・・・その六号から・・・十四号まで
9回で一応完結させました。・・・・そのうちに、こちら
の創作意欲も下火になって・・・・今さら・・・体力も気力
もないと・・・・。すると、あかね書房の須藤紀生さんが、
ある日(二〇〇四年だったと思いますが)『鬼ケ島通信』
にのったものを、まとめてゲラ刷りのようにした原稿を
持って、私の前に現れました。そのときの須藤さんの
口上は次のようなものでした。
「私の編集者稼業もそろそろ終わりです。最後の仕事
として、ぜひこの“天狗童子”を本にしたい。よろしく
お願いします。」
正直にいって、私は半分うれしく半分困りました。本に
するならできる限りの手入れをしたい・・・・・。そういう
チャンスと時間を与えていただいた須藤さんには、
心から感謝いたします。こんな申し出がなければ、
決して手をつけていなかったでしょうから。
二〇〇六年五月 佐藤まさる 」
挿絵も私はすばらしいと感じました。笛の音が聞こえたのも、
挿絵がイメージを先に作っていたからだと感じます。
なかなか、室町、鎌倉以降ではない物語のリアリティーは
感じられないものだと、だからそれ以降だと現代に通じる
ように、感じますね・・・・。(平安前期に関心が傾いて
いるのが最近の私ですから、こんなことも思うようです
沼田杯マラソン(現実には、フル
ではなくてハーフマラソンですが)
は良く晴れた天気のもと無事に
終えることができました。優勝者は
中祖です。総じて3回生が頑張って
走りました。優勝タイムは詳しくは
知りませんが、77分余りのようです。
歴代首位は65分です。もう30年ほど
破られていないのではないですかね。
私はこの正月、膝を痛めて現在杖を
使っています。最近ずいぶんと復調
して来ましたから、杖がなくては
歩けないというのではありませんが、
1kmを超えて歩くときは、万一を
考えて杖を使っています。つまり
杖を使うとかなり膝への負担が軽減
されるのです。でもなければ歩けな
いということはないのです。
さて、夕食を終えると歩いているのですが、
膝を痛めるまでは45分以内でした。
これが、2週間ほど前から少しずつ
距離を伸ばして昨日からもとの距離に
戻してみたところなのです。昨日は
65分かかりました。今日は60分です。
20分とか15分余分の時間がかかっています。
正常なときは、あり得なかった時間です。
家内が同道する時でも、2分ほど余分に
かかる程度でした。ひとりで少し速く
歩くと1分ほど短くなります。
わずか5分、10分という差は、小さくはないのです。
大学の運動部の戦いというのは、
上手い下手にたいへんな差があるかのように
考えるのでは間違っているでしょう。
戦い方と体力、技術力を上手く組み合せれば
それほど差はないと考えるべきものです。
誰も考えたことがないことを、なんて
飛躍するのではなく、各自自分のやったことのない
創造的な挑戦にこそ考えるべき対象があるのです。
マラソンの数分の差に挑戦して見ること
から今年の創造性を工夫してみてはどうでしょう。
平安時代よりだいぶ時代は下り、戦国時代のこと。
小田原に北条氏が起こる。はじめは伊勢氏を名乗っていた。
たしか伊勢新九郎とか言ったような・・・・。美濃の
蝮斎藤道三なんかと同じような印象で小学生のとき
記憶したように思う。
ずいぶんといい加減な話しですが、
歴史というより昔話として眺める方がおもしろい、
と思うので、かくなりました。
相模の国で三浦氏が伊勢に攻められて滅びる
(歴史的には鎌倉幕府ができて功のあった三浦氏が
滅ぼされるほうが有名です)ときに、天狗に拾われた
三浦氏の赤子が、人間に半ば返って血筋を絶や
さないために主筋の者を安房の里見氏に逃がし、
自身もやがてその家来として水軍の長となる、という
のが話しの筋です。
天狗は、人間界の争いごとに直接的にかかわる
ことはしません。つまり戦争を防ぎ平和を維持させる、
あるいは人々の平安を守護するなどに責任をおうこ
とはない。しかし戦乱で乱れると貴人の子供が
捨て置かれ育てる人も周囲に一切ないという環境が
生まれることも多くなる。と天狗が赤子をさらって
天狗として育てる。修行を立派に終えれば、高位の
天狗になったり、僧侶もしくは修験者として
人間界の応援者となることを目的にするのである
(らしい)。
前置きが長くなりました。あかね書房から出た
佐藤さとるさんの書いた「本朝奇談 『天狗童子』」
挿絵は村上豊さんですが、を読みました。面白いのと、
文章が簡潔で歯切れの良さ、そして力強さに
満ちていたため、一気に読み終えました。
与一という山番の老人が手慰みの篠笛を巧みに
作り吹く腕を持っているため、大天狗に見込まれ、
木葉組のからす天狗=名は九郎丸に笛を教える
ことを約束することから物語が始まります。
二人が笛の吹き合わせをする場面を読んでいる時
笛の音が聞こえてくるように感じました。
私は音楽を聞いていると、ときに画像が浮かんでくる
ことがあるのですが、文章を読んでいるとき音が
聞こえてくることは余りありません。風の音、山の音、
など風景に伴なう音は時に経験しますが、笛の
音が、それも合奏の音が聞こえてきたのには
驚きました。佐藤さんの文章が非常にイメージ豊かな
ものだったからだと思います。
明日のマラソン大会。
お天気はもちそうですね。一安心です。
いつもより少し遅いめになって
いますが条件は良いように思います。
老婆心を一言述べさせてください。
走ることに懸命になるあまり
安全に気を配ることをおろそかにしては
無意味です。まず交通事故に気をつけて
ください。よほど気を締めてかからないと
どこかで緩みます。誰かひとり緩むだけでも
全員の問題です。自分さえ気を付ければ良い
という考え方では不十分です。団体戦を戦う
ときとまったく同じです。全員でひとりひとりが
緩むことがないように注意するのです。
このことをよく理解して下さい。いや
理解機会として下さい。理解したとわかる
結果を出してください。
偶然に対する十分な能力を養ってください。
女子部副将の手邊です。
3月の練習日程を連絡させていただきます。
1沼田杯2フリー3午前4一日5フリー6午前7OG戦
8フリー9午前10佛大杯11練習試合12フリー13一日
14フリー15午前16〜19合宿20フリー21フリー22午前
23フリー24午前25一日26フリー27午前28〜29大学対抗
30〜31未定
7日のOG戦当日は9時より練習、13時半より試合開始と予定
しております。
OG連絡で一度出欠確認をさせていただきましたが、当日のご参
加もお待ちしております。
また、16〜19日の合宿は大阪の服部緑地で神戸大学、名古屋
大学と合同で行います。詳細は後ほどアップさせていただきたい
と思っておりますので、よろしくお願いします。
連絡が大変遅くなり申し訳ありませんでした。
また、練習日程は練習予定のページにもアップさせていただきた
いと思っております。
明日よりいよいよシーズンインですが、部員一丸となってがんば
っていきたいと思っておりますので、応援よろしくお願いいたし
ます。
失礼致します。
さてシーズンインですね。
今年は部員各人の創造性を
発揮して自分のテニスを
作ることに全力をあげてください。
無責任に煽り立てているように
理解するかもしれませんが、そういう気持ちは
まるでありません。ただただ
各人の能力に期待するという気持ちから
出ている発言です。
創造するとはどのようなことなのか、
これをテーマに精一杯頑張って欲しいと
言いたいのです。決して、ねばならぬと
言いたいのではありません。自己に
没頭すれば、かならず進むべき道が
見えてくるだろうと、各人の能力を
前提にエールを送っているつもりです。
沼田杯マラソンの日は覗いてみたいと
思っています。お天気の方は大丈夫でしょうか、
それだけが気がかりです。
頑張ってください。
彼の祖父師輔の「九暦」、その兄実頼の
「貞信公記」(貞信公=実頼、師輔の父親忠平)、
その子実資の「小右記」がある。これらの日記が
残っている。平安権門家の日記は、日単位で
書かれるが、漢字による漢文的なもので、
たいへん短い文で書かれた。内容は、儀式の
挙行や、事件発生を記すだけのものである。
たとえば
一日、郡盗入勧学院、
二日、使公輔朝臣奏可被祈雨事之状、
といったものである。
師輔によれば、このような日記を、朝食を
摂る前に、前日の出来事を日記につけるべし
なのである(「事多きときは日々の中に記すべし」
であるが)。
この男もすなる日記を、女が書くとなれば、漢字を使わ
ないで、仮名を使うだろう、と紀貫之が試みたのが
土佐日記である。しかし、漢字を仮名に変えること
が主となって、現実に女性が書いた日記とはずいぶん
内容が異なる。つまりその例となるのが蜻蛉日記
であった。筆者は、師輔の子兼家の奥さん(道綱
のお母さん)ですね。この蜻蛉日記は、月単位で
書かれ、歌が中心の部分は家集かとも見え、さらには
旅行や寺社参詣、夫婦間の諍いによる胸中、など
の文章が並ぶものである。これらのものに日記という
名称を与える気持ちが何か存在していたらしい。
蜻蛉日記の前半部は歌集と見ても間違いがない
のである。つまり先達としての伊勢の歌集「伊勢集」
が存在していた。紫式部は、藤原冬嗣の長男良門
の流れだが、冬嗣の弟真夏の流れ(曾孫)継蔭の
娘が伊勢である。「伊勢の御(婦人への敬称「ご」)」
宇多天皇中宮温子(お父さんは基経)に仕えた。
古今集時代の代表的女流歌人とされる。
百人一首には、
難波潟 みじかき芦の ふしの間も
逢はでこの世を 過ぐしてよとや
がある。
序詞(じょことば。芦のふし、節の間隔が共に短いことを
時間の短さに転換している)や縁語(芦、節、節と節の
間を節(よ)という)、そして掛詞(かけことば。芦の
間隔の短い節の間から時間の短さへ意味をつなぐ)など
歌詠みの技術がすぐれているらしい(もっとも私には
理解困難ではある)。
(ちとこりすぎではあるが・・・。解説にあったので、例により
興味のままに)彼女はお父さんの秘ぞッ子だった。
温子の兄仲平に言い寄られ深い仲になるが、仲平は
婿とられしたので二人の仲は破れる。これに懲りて言い
寄る男を退けるが宇多帝の寵愛を受けて皇子を生む
こととなるらしい。
歌を作り、その歌の周辺を物語として、
情緒、論理、世相、義理との葛藤、
悟りないしは悟りへの努力、修行、
などを柱に観賞すべきものを完成させる、
このような作業に興味を持つ人はいる、
だろう、と私は思いますが・・・・・、自信
はありません。だって、私自身は興味が
持てませんから。でも、あれば、つまりそんな
人がいて、作品を作ったというのなら、
詠んでみよう、見てみよう、味わってみよう、
とは思いますね。人が何をどのように感じ
理解し判断するかには興味を持つのです。
興味を持てるように、才能を発揮して、見事に
満足を与えてくれる人が必ず現れると
思うのです。
ところで、土佐日記を高校のときか、いや
中3のときか、もうすっかり忘れています。
とにかく古文の時間に習ったとき、
「男もすなる日記というものを、女もして
みんものと・・・」???であったことを
思い出しました。このことをすっかり
忘れていました。「日記」といっても、
日記ではないのですね。こういうことが
面倒なんですが・・・・、まあ仕方がな
いですね・・・・。(こういうことに対して、
私は実に諦めが早いのです。すぱっと
諦めて、しんどいことに耐えるのみと
心を決めます。きめても耐えられな
くなれば、まあ、やめてしまいますが
・・・・。やめても、また時間を置いて
再度挑戦します。じつは諦めが
悪いのです。才能無しの、決められない
優柔不断の、愚鈍ぶりです・・・・。)
ここで岩波文庫 今西祐一郎校中の
「蜻蛉日記」の解説に頼ります。
道長には「御堂関白記」があります。
同期(1964年入学=東京オリンピック
開催年)の竹村さんの葬儀・告別式に参列
させていただいた。福井から須藤さんが
飛んでこられました。(最近のやり方でしょう)
出棺後、夕方の初七日に参列をお許しいただ
いたので、約2時間ばかり二人で、蕎麦を
すすりながら話しをしました。実に40年
ぶりでしょう。
須藤さんの心配りをいただいて、40年
の空白を感じないで(でも、学生気分
そのままというのも、なんとも進歩のないもの
ではありますが・・・・。まあ、それも
須藤さんの御厚意と感謝して)いろいろ
と話しをしました。私の母も認知症をわずらい
家内ともども(なんていう表現自体が
配慮を欠くものなんですが・・・)いっぱしの
苦労をしたものですから、なんとか通じ合える
話題もあったわけです。
まあ、しかし、少し僭越とは思いましたが、
昨年の夏の訪問以来、心にかかることでもあり、
初七日の法要に加えていただきました。
竹村さんのご親族、弟さん、妹さん、奥様
に少しでも彼への敬愛の意を伝えようと
言葉をかけさせていただけました。
直接テニスをした仲ではなかったのですが、
テニスへの思いに付いては、思うところを
話していたつもりでしたから、親しい
テニス仲間と認めていただいていたのではないか
と、これも僭越ながら(傲慢ながら、いや
独善ですが)こころからのご冥福をお祈り
させていただいたことでした。
追い出しコンパから帰ってきて、
一休みしてパソコンに向かった。
いつもの事ではあるが、やはり
こころの動きが暖かくてその
年が最高だと感動してしまう。
その余韻を楽しみつつパソコン
に向かったのだが、メールを
開けてみてあまりのことに
しばし言葉を失った。
夏に会ったときは、決して
楽観を許す状況ではないと
察してはいたが、こんなに
早くあっけなくこのときが
来るとは想像もしなかった。
参った。
いまはひたすらご冥福を祈る
だけです。たけさん・・・・・。
きっとこころ穏やかに・・と思う。
もっと感じてこころを送れていたら
と後悔する・・・。いつもこころを
足らないままに引いてしまうのか・・・。
(そして最後ですが)
人々はみなほかに住みあかれて、
古里にひとり、いみじうこころ細く
悲しくて、ながめあかしわびて、久
しうおとづれぬ人に
しげりゆく よもぎが露に そぼちつゝ
人にとはれぬ 音をのみぞ泣く
尼なる人なり。
世の常の 宿のよもぎを 思ひやれ
そむきはてたる 庭の草むら」
これで終わりです。
日記文学という分野があるようですが、
その日その日の出来事、人、自分の思い、
その時々の世相、などが記録される、という
から日記はおもしろい、というあたりから、
筆者の筆力、文学的才能、あるいは
文学的興味・関心があれば、その現れが
後に読む人の同感を誘う、評価に値する
となるあたりにこの分野の存在が意味を
持つのでしょうか。どうなんでしょう。
歌を詠む、作る、という才能・力量、そこから
人間性=評価できる人物の特性を感じる
ことができる、という価値観があるのでしょうか。
武将でも(であるからこそか、ならば文官でも
ということになりますが)辞世の一句を
遺すのがひとかどの存在であった。歌が
できないので切腹は延期になる、なんての
はなかったでしょう・・・・。現代では、俳句が
盛んですが。川柳も結構盛んですね。
私は、いわゆる自由詩(私の場合は、
そもそも詩になっていないのですが。)
が好みです。というか、それしかないだけです。
文を書くというのがうまくできないときに、
思いつくまま言葉を連ねる、と詩を作った
と強弁できる(してしまう)だけですが。
昔より、よしなき物語、歌のことをのみ
心にしめで、夜晝思ひて、おこなひを
せましかば、いとかゝる夢の世をば見ず
もやあらまし。・・・・(ずっと信じてきた)
天照御神を念じ奉れと見ゆる夢は、
人の御乳母して内わたりにあり(高貴な
方の乳母として宮中に仕え)、帝きさき
の御かげ(御庇護)に隠るべきさまを
のみ夢とき(夢見する人)合わせしかど、
そのことは一つかなわでやみぬ。・・・
(宇治の平等院ができたのは1052年。
その翌年鳳凰堂が完成する。1054年の
10月13日に夢を見る。)ゐたる所の
屋のつまの庭に、阿弥陀佛たち給へり。
・・・蓮花の座の、土をあがりたる高さ
三四尺、佛の御丈六尺ばかりにて、
金色に光り輝やき給ひて、・・・・異人
の目には見つけ奉らず、我一人見
たてまつるに、・・・・(「後に迎えに
来るぞ」との)声、わが耳一つに聞こえて、
人は聞きつけずと見るに、うち驚きたれば、
十四日なり。この夢ばかりや、後の頼み
としける。
(親戚のものもちりじりになって)誰も
見ゆることかたうあるに、いと暗き夜、
六郎にあたる甥の来たるに、珍らしう
おぼえて、
月もいでて やみに暮れたる をばすてに
なにとてこよひ たづねきつらむ
とぞいはれにける。(この姨捨が、
古今集の読み人知らずの歌
わが心 なぐさめかねつ さらしなや
をばすて山に 照る月を見て
による歌の言葉に連ねて(直接的
な露骨さを避けての)書名「更科」と
なったものらしいですね)
結婚した事や夫の事は書きませんが、将来は
公卿となるべき人、しかも琵琶をたしなむ資通との
やりとりが、作者の憧れる、王朝生活の物語世界
のイメージに近いものだったのでしょう。また
会いたいなと思ったのでしょうね。ひょっと
したら結婚相手と思ったのかも?このときは
自分を紹介することはしなかったようですが)
・・・別れし後は、誰としられじと思ひしを、
又の年(翌年)の八月に、(裕子内親王が宮中の)
内に入らせ給ふに、夜もすがら殿上にて御遊び
ありけるに、この人の侍ひけるも知らず、
その夜は下にあかして、細殿のやり戸を
おしあけて見出したれば、(読経する人
の声が聞こえる)読経の人はこのやり戸口
に立ちとまりて、物などいふに答えたれば、
ふと思ひ出でて、「時雨の夜こそ、かた
時忘れず戀ひしく侍れ」といふに、・・・
(人が来たので、結局言葉を交わしただけで
会わずじまいとなる。その後も機会がなく
結局会えずじまいですね。作者か資通か
どちらの歌か分からないそうですが、次の
歌を載せています)
かしまみて 鳴門の浦に こがれいづる
心はえきや 磯のあま人
(この後は、もう華やかな交流などのことは
なく、人生の哀愁や宗教的な思いの
記載が続きます。なにしろおばに当たる人は
藤原兼家の奥さんで道綱の母です、また
「かげろう日記」の著者です。どこか
ハイソなところを自負していたのではない
ですかね。精神面の成熟はいろいろ
な面で現れていたと想像しますが。ただ、
私の読解力がそれを見抜くことを許しま
せんので、もはやこれまでです・・・・・。
51才になって優しい夫、でもずいぶん
歳は離れていますが、その夫も亡くなり
ます。後は息子仲俊の順調な成長を
願うが、自分は孤独な生活を送るより
無くなります。日記の最後の方は年代が
定かでなくなります。このあたりを見て
この記述も終わりにします。)
誰もいまだ都なれぬほどにて、え見つけず。
いみじく心もとなく、ゆかしくおぼゆるまゝに
「この源氏の物語、一の巻よりしてみな見せ給へ」
と心の内に祈る。(とおばさんがやって来てなにか
おみやげをあげましょうと源氏物語50余巻
だけでなく他の物語も揃えて袋入りでもらった)
はしるはしる、わずかに見つゝ、心も得ず
心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、
人もまじらず、几張の内にうち臥してひき出でつゝ
見る心地、后の位も何にかはせむ。晝は
日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、火をともして、
これを見るよりほかの事もなければ、おのづから
な(名な)どは、空におぼえ浮かぶを、いみじきことに
思ふに、・・・(僧に叱られる夢を見るほどで)・・
物語の事をのみ心にしめて、われはこの頃
わろきぞかし、盛りにならば、容貌もかぎりなくよく、
髪もいみじく長くなりなむ。光る源氏の夕顔、
宇治の大将(薫源氏)の浮舟の女君のやうに
こそあらめと思ひける心、まずいとはかなくあさまし。
(14才の乙女心としては、こんなものですか・・・。
でも、書いたのは、作者が50才を越えてからですが)
この後も、世間の年頃の娘ならば経も習い、
こしいれの準備もするべきだが、空想の世界に
のめりこむ。作者の人生は明るいものとはならず、
物語の世界とはかけ離れた現実が続く。
日記も20をこして5年ほど記載がない。)
(ぱっとしない生活の中で、祐子内親王家に
宮仕えする。32才?のときである。また
このころ橘俊通の後妻となる。夫が下野守
として単身赴任。35才のとき10月時雨が
降る日のこと、源資通と会って、春が良い
か秋が良いかと議論する。
会場に大阪駅から行くのに、地図を見ながら
痛む足をかばいながら歩いて見ましたが、
やはり痛くて参りました。京阪が最近
淀屋橋から延伸して中之島駅までやって来ます。
駅が会場と同じなのです。で帰りは
京阪で東福寺まで乗り、奈良線に乗り換えて
京都駅へ出て家に帰りました。30分ほど
待ち時間のロスがありましたが、楽ちんでした。
それでも、膝だけでなく、腰や脚の他の部分が
痛んで膏薬をぺたぺたと張って寝ました。
明けて、日曜日は午後の4時間、恒例の
読書会でおもしろかったです。ヘーゲルの
「歴史哲学講義」をまだ読んでいるのですが、
やっと半分を超えたところです(岩波文庫の
上下2巻の下巻に入ったところです)。
いつもの事ではあるのですが、今回は
参加者全員が、われもわれもと、なかなか
発言が活発で、時間が予定を上回ってし
まったほどでした。
私は(むろん何も知らない、無能無才を
むしろ誇るshかない、開き直り屋なので)
ヘーゲルのどこに読むべき価値があるのか、
とむちゃな発言する始末でした。
マルクスの学者、科学者、とヘーゲルの
文才ぶりなどを教えてもらい、ちょっと
得るところがあったなあと楽しんだ一日でした。
勉強をするは面白いことです。
学問をすることは、楽しいことです。
苦しいのですがね。
いろいろ必死に考えていた人を知る
ことが楽しいですね。
この土曜日の夜、コンサートに出掛けました。
中之島にある大阪国際会議場のビルの
5階にある“キューブ○○”とかいう
大きなホールです。大阪フェスティバルホールが
閉鎖になったので、大阪で一番大きな音楽ホール
であるとか聞きましたが。
「和幸(かずこう)」(ひっぴーえんど)の
コンサートです。「和(かず)」は
加藤和彦さんです。「幸」のほうは覚えていません。
加藤さんは「おらはしんじまっただ・・・」
で一世を風靡した“フォーク・クルセダーズ”の
メンバーだった、日本のこの世界の大御所です。
他にはしだのりひこさんと北山修さんがいて
トリオを組んでいました。北山さんは、むろん
直接の関係は何もありませんが、高校の後輩で
同窓会誌で記事を目にします。
会場は2500名も入る大きな物で、まずは
盛況に見えました。コンサートの前半は、
腰が痛くなって、膝も痛く、気分が乗らない
ので、ちょっとつまらなく感じていましたが、
後半はメッセージソング(イムジンハンや戦争を
知らない子供達を歌ったのは彼等でした)が
出て来たあたりから会場も盛り上がり
私も手を叩き口ずさんでいました。
思うに、演出上の工夫で、控えめな演出の
方がよいということであったと思います。
加藤さんの個性として、力まないで、
さりげなく、しゃれっ気で遊びながら
上質の音楽を楽しもうということでも
あるのですが。ギターをとっかえひっかえ、
つまり加藤さん所有のすごいギターを惜しげもなく
使っての演奏でした。キーボード、パーカッション、
ベースギター、ドラムス、サブなどは
外国の男性(ドラムは日本人女性)でした。
(作者が10才のとき、お父さんが上総介に
任じられて、京より東下りをするのに、継母や兄弟
と同道しました)・・・・なほ奥つかたに
生ひいでたる人、・・・・世の中に物語と
いふ物のあんなるを、いかで見ばやと思ひ
つゝ、・・・・・姉継母などやうの人々の、
その物語、かの物語、光る源氏のあるや
うなど、ところどころ語るを聞くに、いとど
ゆかしさまされど、わが思ふるまゝに、そらに、
いかでかおぼえ語らむ。・・・等身に薬師佛
をつくりて・・・・・「京にとくあげ給ひて、
物語のおほく候ふなる、あるかぎり見せ給へ」
と、身をすてて額をつき、祈り申すほどに、
(1020年)十三になる年、のぼらむとて、
九月三日門出して・・・・・・(と日記は始まります)
(旅はいろいろなことがあって、苦しいや悲しい
思いもしたが、なんとか無事に京に入った。時は
師走の二日です。ただ旅の途中に聞いた話と
して竹芝寺に天皇の娘を盗んで一緒に住んだ
夫婦の話が紹介してある。かがり火の係に
任じられていた衛士が、家に帰りたいなあと
ため息をついているところを見咎めた娘が
連れて行けと命じたことから発生した事件で
ある。日記というより、一寸した読み物とする
作者の思いの表れでしょう。)
(京の三条の宮の西の邸に着いて、継母は
家を出る。実母の方が一緒に生活する。そういう
ちょっとあわただしいなかでも)
ありもつかず、いみじゅうものさわがしけれども、
いつしかと思ひし事なれば、「物語もとめて
見せよ、見せよ」と母をせむれば、三条の宮に、
親族なる人の衛門の命婦とてさぶらひけるを
たづねて、文やりたれば、珍しがりて、喜びて、
・・・・・めでたき草子ども、・・・おこせたり。
嬉しくいみじくて、・・・・・
かくのみ思ひくんじたるを、心も慰めむと、
心ぐるしがりて、母、物語などもとめて
見せ給ふに、げに、おのづから慰みゆく。
紫のゆかりを見て、つゞきの見まほしくお
ぼゆれど、人かたらひなどもえせず。
さて、源氏物語を読んで(私はいまだ読んで
いませんが。もっとも作者とて、なかなか
読めなかった。噂を聞いていただけのよ
うですが)、光源氏に憧れ、自意識の高く
輝く世界に活躍する己の姿を夢見る女性
(中流貴族か)の書いた日記というので、
なんとなく読む気になって、読みました。
「更級日記」ですが。
本来は「さらしな日記」「更科日記」であった
ようですが、藤原定家自筆本に書かれた
書名を使用しているのです。(岩波文庫
黄 18−1 西下経一校注の解説から)
紫式部の子の代の人ですね。1008年生まれです。
一条天皇の時代です。お父さんは菅原孝標
(たかすえ)菅原道真の4世です。学者の
家系ですね。孝標は上総介と常陸介を
つとめました。お母さんは藤原倫寧
(ともやす)の娘です。母親の兄は長能
という歌人で能因法師の師匠です。また、
母親の姉は藤原兼家(道長の父親)と
結婚して通綱をを生んでいる。
道綱母として知られている。
百人一首に、次のような歌がありますが。
能因法師
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は
竜田の川の 錦なりけり
通綱母
嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜の 明くる間は
いかに久しき ものとかは知る
(状況次第では、そうとうな修羅場をみるかも・・・)
大弐三位(紫式部の娘=藤原賢子)
有馬山 稲名の笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやわする
孝標の別の妻(作者の継母)の叔父さん
高階成章は大弐三位=紫式部の娘さん
を妻としています。
彼女(作者)の名前は不明です。「孝標女」と
されています。「夜半の寝覚」「三津の浜松」
などの作者と記されています。
貴族というてもいろいろやな、藤原氏の栄華
とはいうが、他氏の貴族はそれぞれ家系を
誇る専門職(専門職を誇る家系か)で位を
争うのやな、貴族同士の血の交流が激しいなあ、
と何も知らないため、いちいち驚いたのです。
そうですね。最近は何方と会っても、体調や
健康のことが話題になります。こういうことは
若い頃はなかったことです。歳をとったのですね。
テニスの調子に関することはどうでしょうね。
話す仲と、話さない仲があるようですが。
いわゆる好敵手の意識があるとよく話すのか、
話さないのか・・・・。
同じ学年、同じポジションなら、それとなく
注意をしているかもしれません。
私の場合は、どうだったか・・・・・・?
意識していたから、話しているつもりで
伝わっていなかった。聞いていても相手の
考えていることを正確にキャッチしていなかった、
かもしれませんね。というのであれば、
結局独り善がりですか・・・・・。
つまり、孤立していた・・・・のでしょうね。
その分(変な言い訳ですが)執念があったでしょうが。
なぜあんなことを、あんなタイミングで相手が
わざわざ言ったのだろう??? という思いは
数えるほどではありますが、必ず経験すること
ではないでしょうか。伝えること、伝わること、
理解すること、理解しようとすること、これらは
同じと言うことにはなりませんね・・・・。
まあ、普段にはそれだからといって何か深刻な
問題を惹起することにはなりません。だから
己は己、人は人、で独立しています、させています。
(まあ、夫婦ならね、独立させていると、それなら
形態も独立させましょうとなるでしょうか)
でも、時至れば、独立できない事態に
気づくこともありますね。そうなったときに、
まるで予想もしていなかったと、驚き慌てて
その事態から逃げようとすると混乱の渦に
巻き込まれてしまいます。これでは堪らぬと
なおさらそこから逃げようとすると、「楽を求めて
苦を背負いこむ」の愚を犯すのです。
では普段にあって、独立させてはいるが
従属していると理解し、従属しているが
独立性をうまく利用しようと工夫する、なんて
ことが考えられるように思います・・・・・・・。
国会論戦の様子をうかがっていると、
野党の質問は、与党の条件=前提を引き出そうと
あの手この手で行われます。政府答弁は、何の
前提もないと答えるものと、前提の存在を明確に
するものと二通りありますが、(参院でよく見掛
ける、与党質問、野党答弁でも同じです)議論
を噛み合わせない工夫が随所に見られますね。
やはりプロだなあと、うんざりします。
・・・・・・・・・・・・・・・
先週の土曜日ですが、夕方久しぶりで
山元さんとダベリングしました。初打ち会以来です。
山元さんは、胃の中のピロリ菌退治の服薬期間
で修行生活でしたし、私は、初打ち会で傷めた
膝の治療期間でほとんど閉門蟄居生活でしたから。
とりたてて特別の主題があったわけではないのです。
私はこのところコートへ出て行けませんので、
手持ち無沙汰で、話題にも事欠いていました。
そうそう、今年は、故沼田さんの33回忌の
年なんですね。個人的にはこのところ
よく沼田さんのことを思い出します。
お墓に参るのにも、ちょっとこころを
引き締めてのぞみましょうか・・・・・・、と
話してみました。これが1つの話題でしたね。
最近は、家内の忠告もあり、少し飲むのを
控えているせいか、それほどがぶがぶと
飲むこともなくなって。また、医者の
指導もあって、もう少し体重を減少させようと
試みていますので、むしゃむしゃとそれほど
量を食べることもなくなっています。
いたって穏やかに慎ましやかに飲んで食って
話していました。遠目には、かなりの老人二人が
静かにちびりちびりやっているように見えていた
のではないでしょうか。まあ、21日の追い出しコンパの
席上でどのように見えるかでしょうね・・・・・。