誰もいまだ都なれぬほどにて、え見つけず。
いみじく心もとなく、ゆかしくおぼゆるまゝに
「この源氏の物語、一の巻よりしてみな見せ給へ」
と心の内に祈る。(とおばさんがやって来てなにか
おみやげをあげましょうと源氏物語50余巻
だけでなく他の物語も揃えて袋入りでもらった)
はしるはしる、わずかに見つゝ、心も得ず
心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、
人もまじらず、几張の内にうち臥してひき出でつゝ
見る心地、后の位も何にかはせむ。晝は
日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、火をともして、
これを見るよりほかの事もなければ、おのづから
な(名な)どは、空におぼえ浮かぶを、いみじきことに
思ふに、・・・(僧に叱られる夢を見るほどで)・・
物語の事をのみ心にしめて、われはこの頃
わろきぞかし、盛りにならば、容貌もかぎりなくよく、
髪もいみじく長くなりなむ。光る源氏の夕顔、
宇治の大将(薫源氏)の浮舟の女君のやうに
こそあらめと思ひける心、まずいとはかなくあさまし。
(14才の乙女心としては、こんなものですか・・・。
でも、書いたのは、作者が50才を越えてからですが)
この後も、世間の年頃の娘ならば経も習い、
こしいれの準備もするべきだが、空想の世界に
のめりこむ。作者の人生は明るいものとはならず、
物語の世界とはかけ離れた現実が続く。
日記も20をこして5年ほど記載がない。)
(ぱっとしない生活の中で、祐子内親王家に
宮仕えする。32才?のときである。また
このころ橘俊通の後妻となる。夫が下野守
として単身赴任。35才のとき10月時雨が
降る日のこと、源資通と会って、春が良い
か秋が良いかと議論する。
会場に大阪駅から行くのに、地図を見ながら
痛む足をかばいながら歩いて見ましたが、
やはり痛くて参りました。京阪が最近
淀屋橋から延伸して中之島駅までやって来ます。
駅が会場と同じなのです。で帰りは
京阪で東福寺まで乗り、奈良線に乗り換えて
京都駅へ出て家に帰りました。30分ほど
待ち時間のロスがありましたが、楽ちんでした。
それでも、膝だけでなく、腰や脚の他の部分が
痛んで膏薬をぺたぺたと張って寝ました。
明けて、日曜日は午後の4時間、恒例の
読書会でおもしろかったです。ヘーゲルの
「歴史哲学講義」をまだ読んでいるのですが、
やっと半分を超えたところです(岩波文庫の
上下2巻の下巻に入ったところです)。
いつもの事ではあるのですが、今回は
参加者全員が、われもわれもと、なかなか
発言が活発で、時間が予定を上回ってし
まったほどでした。
私は(むろん何も知らない、無能無才を
むしろ誇るshかない、開き直り屋なので)
ヘーゲルのどこに読むべき価値があるのか、
とむちゃな発言する始末でした。
マルクスの学者、科学者、とヘーゲルの
文才ぶりなどを教えてもらい、ちょっと
得るところがあったなあと楽しんだ一日でした。
勉強をするは面白いことです。
学問をすることは、楽しいことです。
苦しいのですがね。
いろいろ必死に考えていた人を知る
ことが楽しいですね。
この土曜日の夜、コンサートに出掛けました。
中之島にある大阪国際会議場のビルの
5階にある“キューブ○○”とかいう
大きなホールです。大阪フェスティバルホールが
閉鎖になったので、大阪で一番大きな音楽ホール
であるとか聞きましたが。
「和幸(かずこう)」(ひっぴーえんど)の
コンサートです。「和(かず)」は
加藤和彦さんです。「幸」のほうは覚えていません。
加藤さんは「おらはしんじまっただ・・・」
で一世を風靡した“フォーク・クルセダーズ”の
メンバーだった、日本のこの世界の大御所です。
他にはしだのりひこさんと北山修さんがいて
トリオを組んでいました。北山さんは、むろん
直接の関係は何もありませんが、高校の後輩で
同窓会誌で記事を目にします。
会場は2500名も入る大きな物で、まずは
盛況に見えました。コンサートの前半は、
腰が痛くなって、膝も痛く、気分が乗らない
ので、ちょっとつまらなく感じていましたが、
後半はメッセージソング(イムジンハンや戦争を
知らない子供達を歌ったのは彼等でした)が
出て来たあたりから会場も盛り上がり
私も手を叩き口ずさんでいました。
思うに、演出上の工夫で、控えめな演出の
方がよいということであったと思います。
加藤さんの個性として、力まないで、
さりげなく、しゃれっ気で遊びながら
上質の音楽を楽しもうということでも
あるのですが。ギターをとっかえひっかえ、
つまり加藤さん所有のすごいギターを惜しげもなく
使っての演奏でした。キーボード、パーカッション、
ベースギター、ドラムス、サブなどは
外国の男性(ドラムは日本人女性)でした。
(作者が10才のとき、お父さんが上総介に
任じられて、京より東下りをするのに、継母や兄弟
と同道しました)・・・・なほ奥つかたに
生ひいでたる人、・・・・世の中に物語と
いふ物のあんなるを、いかで見ばやと思ひ
つゝ、・・・・・姉継母などやうの人々の、
その物語、かの物語、光る源氏のあるや
うなど、ところどころ語るを聞くに、いとど
ゆかしさまされど、わが思ふるまゝに、そらに、
いかでかおぼえ語らむ。・・・等身に薬師佛
をつくりて・・・・・「京にとくあげ給ひて、
物語のおほく候ふなる、あるかぎり見せ給へ」
と、身をすてて額をつき、祈り申すほどに、
(1020年)十三になる年、のぼらむとて、
九月三日門出して・・・・・・(と日記は始まります)
(旅はいろいろなことがあって、苦しいや悲しい
思いもしたが、なんとか無事に京に入った。時は
師走の二日です。ただ旅の途中に聞いた話と
して竹芝寺に天皇の娘を盗んで一緒に住んだ
夫婦の話が紹介してある。かがり火の係に
任じられていた衛士が、家に帰りたいなあと
ため息をついているところを見咎めた娘が
連れて行けと命じたことから発生した事件で
ある。日記というより、一寸した読み物とする
作者の思いの表れでしょう。)
(京の三条の宮の西の邸に着いて、継母は
家を出る。実母の方が一緒に生活する。そういう
ちょっとあわただしいなかでも)
ありもつかず、いみじゅうものさわがしけれども、
いつしかと思ひし事なれば、「物語もとめて
見せよ、見せよ」と母をせむれば、三条の宮に、
親族なる人の衛門の命婦とてさぶらひけるを
たづねて、文やりたれば、珍しがりて、喜びて、
・・・・・めでたき草子ども、・・・おこせたり。
嬉しくいみじくて、・・・・・
かくのみ思ひくんじたるを、心も慰めむと、
心ぐるしがりて、母、物語などもとめて
見せ給ふに、げに、おのづから慰みゆく。
紫のゆかりを見て、つゞきの見まほしくお
ぼゆれど、人かたらひなどもえせず。
さて、源氏物語を読んで(私はいまだ読んで
いませんが。もっとも作者とて、なかなか
読めなかった。噂を聞いていただけのよ
うですが)、光源氏に憧れ、自意識の高く
輝く世界に活躍する己の姿を夢見る女性
(中流貴族か)の書いた日記というので、
なんとなく読む気になって、読みました。
「更級日記」ですが。
本来は「さらしな日記」「更科日記」であった
ようですが、藤原定家自筆本に書かれた
書名を使用しているのです。(岩波文庫
黄 18−1 西下経一校注の解説から)
紫式部の子の代の人ですね。1008年生まれです。
一条天皇の時代です。お父さんは菅原孝標
(たかすえ)菅原道真の4世です。学者の
家系ですね。孝標は上総介と常陸介を
つとめました。お母さんは藤原倫寧
(ともやす)の娘です。母親の兄は長能
という歌人で能因法師の師匠です。また、
母親の姉は藤原兼家(道長の父親)と
結婚して通綱をを生んでいる。
道綱母として知られている。
百人一首に、次のような歌がありますが。
能因法師
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は
竜田の川の 錦なりけり
通綱母
嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜の 明くる間は
いかに久しき ものとかは知る
(状況次第では、そうとうな修羅場をみるかも・・・)
大弐三位(紫式部の娘=藤原賢子)
有馬山 稲名の笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやわする
孝標の別の妻(作者の継母)の叔父さん
高階成章は大弐三位=紫式部の娘さん
を妻としています。
彼女(作者)の名前は不明です。「孝標女」と
されています。「夜半の寝覚」「三津の浜松」
などの作者と記されています。
貴族というてもいろいろやな、藤原氏の栄華
とはいうが、他氏の貴族はそれぞれ家系を
誇る専門職(専門職を誇る家系か)で位を
争うのやな、貴族同士の血の交流が激しいなあ、
と何も知らないため、いちいち驚いたのです。
そうですね。最近は何方と会っても、体調や
健康のことが話題になります。こういうことは
若い頃はなかったことです。歳をとったのですね。
テニスの調子に関することはどうでしょうね。
話す仲と、話さない仲があるようですが。
いわゆる好敵手の意識があるとよく話すのか、
話さないのか・・・・。
同じ学年、同じポジションなら、それとなく
注意をしているかもしれません。
私の場合は、どうだったか・・・・・・?
意識していたから、話しているつもりで
伝わっていなかった。聞いていても相手の
考えていることを正確にキャッチしていなかった、
かもしれませんね。というのであれば、
結局独り善がりですか・・・・・。
つまり、孤立していた・・・・のでしょうね。
その分(変な言い訳ですが)執念があったでしょうが。
なぜあんなことを、あんなタイミングで相手が
わざわざ言ったのだろう??? という思いは
数えるほどではありますが、必ず経験すること
ではないでしょうか。伝えること、伝わること、
理解すること、理解しようとすること、これらは
同じと言うことにはなりませんね・・・・。
まあ、普段にはそれだからといって何か深刻な
問題を惹起することにはなりません。だから
己は己、人は人、で独立しています、させています。
(まあ、夫婦ならね、独立させていると、それなら
形態も独立させましょうとなるでしょうか)
でも、時至れば、独立できない事態に
気づくこともありますね。そうなったときに、
まるで予想もしていなかったと、驚き慌てて
その事態から逃げようとすると混乱の渦に
巻き込まれてしまいます。これでは堪らぬと
なおさらそこから逃げようとすると、「楽を求めて
苦を背負いこむ」の愚を犯すのです。
では普段にあって、独立させてはいるが
従属していると理解し、従属しているが
独立性をうまく利用しようと工夫する、なんて
ことが考えられるように思います・・・・・・・。
国会論戦の様子をうかがっていると、
野党の質問は、与党の条件=前提を引き出そうと
あの手この手で行われます。政府答弁は、何の
前提もないと答えるものと、前提の存在を明確に
するものと二通りありますが、(参院でよく見掛
ける、与党質問、野党答弁でも同じです)議論
を噛み合わせない工夫が随所に見られますね。
やはりプロだなあと、うんざりします。
・・・・・・・・・・・・・・・
先週の土曜日ですが、夕方久しぶりで
山元さんとダベリングしました。初打ち会以来です。
山元さんは、胃の中のピロリ菌退治の服薬期間
で修行生活でしたし、私は、初打ち会で傷めた
膝の治療期間でほとんど閉門蟄居生活でしたから。
とりたてて特別の主題があったわけではないのです。
私はこのところコートへ出て行けませんので、
手持ち無沙汰で、話題にも事欠いていました。
そうそう、今年は、故沼田さんの33回忌の
年なんですね。個人的にはこのところ
よく沼田さんのことを思い出します。
お墓に参るのにも、ちょっとこころを
引き締めてのぞみましょうか・・・・・・、と
話してみました。これが1つの話題でしたね。
最近は、家内の忠告もあり、少し飲むのを
控えているせいか、それほどがぶがぶと
飲むこともなくなって。また、医者の
指導もあって、もう少し体重を減少させようと
試みていますので、むしゃむしゃとそれほど
量を食べることもなくなっています。
いたって穏やかに慎ましやかに飲んで食って
話していました。遠目には、かなりの老人二人が
静かにちびりちびりやっているように見えていた
のではないでしょうか。まあ、21日の追い出しコンパの
席上でどのように見えるかでしょうね・・・・・。
まあ、馬を鹿と言い張るのが権力の行使ですから。
麻生さんの大器振りもすばらしい。
NHKの比類のなさも誇りです。
日本相撲協会の寝技も誇りです。
「私は、貴方とは違うんです」とたしなめる宰相も。
「もっと勉強して来てほしい」、あげくに
「もう君たちには答えない」と世間水準の低さに
悲鳴を上げた宰相は少なくない。
いろいろ深く考える人は、世間が付いて来ないと
苛立ちを覚え、ますます孤立しますね。
こうなるとまず理解が(正しくは、相互理解ですが)
できなくなりますね。
政治家や作家に限らず,
虚空に立って思索する人は
多いようです。科学とはずいぶん違う世界ではない
かと思いますが、どうなんでしょう。
「忘れられた思想家」なんてのもあったはずですが・・・・。
とにかく書かれた文章(つまり和泉式部日記)を読んで、
清しくきっぱりとした印象を持ちました。気持ちの
さっぱり感を感じました。気持ちの中身(女性の
愛情がどうこうという)ではなくてです。
理屈だと、別の道もありえるぞと思ってしまいますから。
理屈が一本道しか許さないということはないでしょう。
理論がまとまるということは、まとめるだけの条件を
設定したからだということです。こころへんのことを
よく了解したと感じられると、あとは気持ちのあり方
ですね。つまりさっぱりした感じを与えるのも、
この了解が私にはついたからだと言えますね。
理屈にうるさいというときには、どうも(私個人の
感じ方ですが)何の前提条件も付けないと、
ことさらにことわる人が多いように思います。
つまり、他に答えがないでしょうと押しつけてくる
のですね。条件があると、私は違いますからと
弁解の余地を相手に与えてしまうと怖れるのでしょう。
こういう議論の仕方には、閉口するしかありませんから。
女はその後、物のみあはれにおぼえ、歎きのみせらる。
とくいそぎたちたらましかば、と思ふ。(こんなことなら
もっと早く宮の邸に移っていた方が良かったかも、なんて
実に女性らしい=というと非難されそうですが。
とにかく事態はいよいよ切迫してきます。)
(12月18日に宮がやって来て)例の、「いざ給へ」
とのたまはすれば、(行動が始まります。でもまあ、
今日だけだろうと、でも付き合うか、とすると、
誰か付け人を一人ぐらいなら連れて来てもよいよと
言われる。)・・・・さればよと思ひて、なにかわざと
だちても参らまし、いつ参りしぞと、なかなか人も
思へかし、など思ひて、(こうして宮の邸(南院)
に移ったのですが、宮の奥さんは結局三条の妃
おねーさんの忠告もあって邸を出て実家=藤原
済時(父は師尹、忠平の子で師輔、実頼の兄弟、の子供、
道長に従う)の家に戻ってしまう。それでも、まあなんとか
二人はラブラブで過ごすらしい。特に敦道は得意
満面だったらしいが。年下の恋人に和泉さんは、
実際のところはどうだったんでしょうね・・・・)
しかし、彼女の心がどうこうの前に、いや私が
言うのではちょっと何が何でも、無理ですから
ね・・・、この時代の考え方、人生の目的、
価値観、で硬ければ、いったい何を良しとして
生きているのかを考えると、(突然ですが)
エンゲルスの忠告、いやマルクスの忠告ですか、
「われわれの従来のすべての歴史書は、とりわけ
18世紀に侵すべからざるものとなった不合理な
前提から出発している。その前提とは、文明と
ほとんど同時期に生まれた単婚制個別家族が
結晶核であって、このまわりに社会や国家が
徐々に付着してきた、というものである。」
(エンゲルス 「家族・私有財産・国家の起源」
岩波文庫所載)
そういえば、NHK「篤姫」でびっくりしたこと。
徳川を家族、大奥の人間を家族、という台詞で
すね。見事な脚本家の力量かとも疑います。
数年前の「新撰組」でもこの手の創造はあったので、
天下のNHKだとしますが。
(10月10日ほどに)おはしたり。奥は暗くておそろしければ、端近
く
うち臥させ給ひて、あはれなることの限りのたまはするに、かひなくは
あらず(共に語ることのできる情感を持っていると認め
た)。・・・・・・
あはれにおぼされて、女、寝たるやうにて思ひ乱れて臥したるを、
おしおどろかさせたまひて(揺り動かして起こされて)、
時雨にも 露にもあてで 寝たる夜を
あやしくぬるる 手枕の袖
とのたまえど、・・・(気分は無性に悲しくて返事もしないで涙を
流していると、宮は言っちゃったのですね、とうとう。)
「いかに侍るにか、心地のかきみだる心地のみして。
耳にはとまらぬにしも侍らず。よし見たまへ。手枕の袖
忘れ侍る折や侍る。」とたはぶれごとにいひなして。
(こうなってくると、まあ頼もしい、いや不安だ、と
女心と男心がゆれますね。この後「手枕の袖」をキーワードに
歌を詠み恋愛が深まって行く。しかし真剣になれば
悩みも増える。難関は双方の疑心でしょうね。そしてよし行こうかと決
心するが)
この宮仕へ本意にもあらず、巌の中にこそ住ままほしけれ、
(古今集に「いかならむ 巌の中に 住まばかま
世のうきことの 聞えこざらむ」による文)又うきこともあらば
いかがせん、いと心ならぬさまにこそ思ひはめ、猶かくてや
過ぎなまし、近くて親はらからの御有様も見聞え、
又むかしのやうにも見ゆる人(かつての夫橘道貞か)の
上も見さだめん、と思ひ立ちにたれば、あいなし。
(いやあ、現実的ですね。ほんとしょうがないな)
かくいふほどに、年も残りなければ、春つ方(宮の
邸に移るのは来年の春か)と思ふ。(11月1日か、
雪がよく降っている日に、取り止めのないことを
歌にして贈り合う。そんなある日雨が激しい夜
にやって来て)(取り止めのない話しをしていると)
「かしこに(宮の邸)ゐてたてまつりて後、まろが
ほかにもゆき、法師にもなりなどして、みえたて
まつらずは、本意なくやおぼされん」と心細く
のたまうに、(どうしたことかと心がふさがって
泣けてくる。外は雨。とろとろとまどろんで、
今日はどうも様子が違う、素直に話しができ
そうなので、かねての出家の話しもしてみようかとも
考える。夜が明けると宮は帰って行く。
ここからはもう恋愛時代ではなくなって来る。)
ややこしついでに、日記の先を書いてしまうと、
恋心たっぷりの和泉は積極的に恋愛し、ついには
敦道の呼びかけに応じて彼の邸に入って仕えるのであるが、
彼の正妃は姉の勧めもあって邸を出てしまう。それでも
かまわず二人は暮らすが、邸が火事にあって住居を移しなど
して足掛け5年を経て敦道は死んでしまう。27才だ。
傷心の和泉は1年の喪に服す。このとき尼になりたいと
歌に詠んだ。喪が明けて一条帝中宮彰子に
仕えるのである。この後、これが機縁となって道長の信任
の厚い藤原保昌と結婚した。丹後の守となった夫について
下る。道長が、尼になる話しは?と聞いたとき「よさの海に
生ひやはすらん」と歌で答えている。この母を与謝に
訪れた小式部が「大江山・・・・まだふみもみず・・・」
と詠んだのですね。
ちょっとそこらへんで見たことどもを集めただけで、
知ったかぶりのつもりはない・・・・・でも・・・・
さて日記に入りますが、
「夢よりもはかなき世の中を歎きわびつつ明かし暮らすほどに、
(1003年4月10余日に)・・・近き透垣(すいがい)のもとに
人のけはいすれば、・・・・故宮(為尊)に候ひし小舎人童・・・
(「敦道さんをたずねたら、よく行くのか、それなら
今度これを持ってあなたをたずねてほしい、と言われまし
たので」と、)橘の花を取り出でたれば、・・・・はかなきことをも、
思ひて
薫る香に よそふるよりは 時鳥
聞かばや同じ 声やしたると (なんせ兄弟だから声がね)
と聞こえさせたり。(宮は離れたところに隠れていたが、
この歌を書いたのを読んで,返事に)
同じ枝に 鳴きつつをりし 時鳥
声はかはらぬ ものと知らずや
と書かせ給ひて、賜ふとて「かかる事、ゆめ人にいふな。
すきがましきやうなり」とて入らせ給ひぬ。(こうして二人の
付き合いが始まる。何度も宮が夜やって来る。5月になると
うわさも広がってくる。非難する声が多い)
(敦道が邸から和泉のところへ)おはしまさむとおぼしめして、
薫物(たきもの)などせさせ給ふほどに、侍従の乳母参上りて、
「出でさせ給ふはいずちぞ。このこと人々申すなるは。・・・・
召してこそ使はせ給はめ。かろがろしき御歩きは、いと見苦しきことな
り。
・・・大殿(道長)にも申さん。・・・」(と文句を言われてしまう。
が彼は)
「・・・はかなきすさびごとするにこそあれ。ことごとしう人は
いふべきにもあらず」とばかりのたまひて、・・・・
(いろいろ思案して二人ともちょっと臆するのか疎遠になってしまう。
しかし思いは募り、付き合いが深まってくる。7月、8月、9月と過ぎ
て)
(舞い戻ってしまいました。閑話復題ですね)
和泉式部日記に(私が)入るには、やや
こしい人間関係を知っておかなくてはな
らないので厄介です。
紫式部は藤原氏。良房(忠仁公)の兄弟
良門の5世の孫である。つまりは冬嗣の
子供の子孫になる。和泉式部の父は大江
雅致(まさむね)で、冷泉天皇の皇后昌子内親王
に仕えたが、母も内親王の乳母だったらしい。
冷泉天皇は村上天皇の子供である。弟が
円融天皇。村上天皇が藤原師輔の娘安子との
間になしたのがこの兄弟である。冷泉天皇は
師輔の子伊尹(これただorこれまさ)の娘懐子との間に
花山天皇等を、また師輔の子伊尹の弟兼家の娘超子
との間に三条天皇、為尊親王、敦道親王等をなした。
超子の妹詮子は円融天皇との間に一条天皇を
もうけている。この一条天皇は「私は人材に恵まれた」
となかなかの存在であったが、三条天皇はどうも
出来がよくなかったらしい。しかし三条、為尊、敦道の
三兄弟は容姿端麗であった。さらに敦道は三兄弟のなかでも
最も芸術的才能に恵まれて和歌漢詩をよくしたという。
さて、冷泉の皇后昌子内親王が病を得て
和泉式部の夫橘道貞(和泉守、どうも夫は単身赴任らしい.
子供は小式部)の邸を借りていた父雅致のもとへ移り住んだが、
一月余りで亡くなってしまった。999年12月1日である。
継母ではあるが昌子に親しく仕えた為尊は、それまでに
和泉式部と出会い恋愛関係にあったが、
昌子の見舞いで父と共にいた和泉との関係は発展したはず。
でも彼の性質から、夜の外出が激しく(女通いでしょうね)
流行病にもかかわらず控えないで亡くなってしまった。
1002年6月13日、26歳であった。正妃(藤原伊尹の娘、
冷泉妃懐子の妹)は尼になってしまう。
ここから日記が始まることになる。
つまりショックでふさいでいる和泉式部を為尊の弟
敦道(23才)が訪れるからですね。彼は師輔の弟師尹の子
済時の娘と結婚しています。この娘の姉は三条の皇后です。
ここまででも、本題に入らない・・・・、入れない。
ややこしい人間関係だが。
31日の朝日新聞朝刊に小林慶一郎さんの論文
「けいざいノート 『金融危機が与えた宿題』」が
opinionとして掲載されました。経済学は現実に
無力か、あるいは新しい理論生む契機に、と
主題が掲げられていました。経済学の発展
における最近の動向という最新経済学情報、
もしくは最先端経済学報告とでもいう位置
付けでしょうか。
でその最新知識を考えてみました。
貨幣の公共性が問題であると小林さんは
指摘するのですが、どうも良く理解できません。
強欲資本主義が闊歩するのも貨幣がなんの
制限もなく大きな資本の欲にしたがって動き回る
ことが経済を危機に落したのだ、とする前提
から出発して論を重ねているように感じます。
いまさらとなっていた近代経済学=ケインズ
経済学は市場を支える公共性を全部政府に
帰す。一方現在の標準経済学=新古典派
経済学は、市場には支える何かが必要だと
はまったく問わない。しかし市場の交換媒体
が貨幣であることから、「貨幣の公共性」を
考えなくてはなるまいと指摘します。
どうも私は納得できないのです。貨幣現象を
しっかり把握できない、思いの通りに
制御できない、危機を避ける方法が見つか
らない、と結論付けるのがまず良く理解できません。
貨幣現象はどのようなものか、なぜ起こるのか、
の解明を求めるのが進むべき道ではないかと
考えるからです。
そして、市場なる場の力学がまるで解明されて
いないという観点がないように感じます。
そもそも公平平等な市場、あるいは市場の
成立以前の力学に釣り合いなどという
前提は存在していないのだとの公理を置く
理論もある、いやあった、このことへの反省が
ない。ということは、別の理論で進むだけと
しているに過ぎない。私からみれば、経済学
ではない。経済学は成立していないと。
朝日新聞が、経済学への無知・無能力を
100年に一度の「自然現象」経済危機への
あたう限りの挑戦を免罪符にして、すりかえる
ための記事掲載でなければと、邪推をして
しまいそうですが・・・・・。ならば、二重に
経済学を貶めていると考えるのです。
若き経済学者よ、立て!燃えよ!です。
各党の政策の違いを、細かな言葉の上で
取り沙汰することは、政策の実現を図る上では
ブレーキになるでしょう。
表と裏ほどの違い=でもくっついている、
右へと左へほどの違い=将来どこまで離れるのか、
右と左の違い=今は離れていても目指すは同じ所、
水と油ほど違う=今おなじ課題解決にとりくめないのか、
こう言うことの確認や議論に政治言論は熱心でない。
同じ目標なら、同じ解決策なら、
どこが一番熱心なのか、その熱心さを競う、
その競争を判定して欲しいと(国民に)
求める熱意がない。飽くまで、細かな
一字一句にこだわって、違いを
強調し、優劣を決めようとする。政治家がそうなら、
ジャーナリズムが言葉の違いにとらわれないように
論議を進めれば良いのだが、政治家以上に言葉に
とらわれている。熱心さを競わせるよう煽れば良い
だろうにと思いますが。
役所言葉をあれほど槍玉に挙げてきたのに、
政治家の熱心さを比べる議論を避け、
読み誤りを咎めてしたり顔するだけと、
力を失った言葉の微細な違いにしか
言説を生めない。せめて政治家には
日常の言葉を使えと言い、自身は難解な
漢語を駆使して宙に舞う方がよいとしている
のではないか。言霊とは、難解な言葉に
宿るものかもしれないからか。
政治家が支持者を相手にどれほど日常語で
演説しているか。メディアが政治家に課している
言葉の二重性に気が付いて、メディアの方が
変換のうまい実現の苦労をすべきではないか。
メディアに出てくるスポーツ選手の言説の
巧みさにも私は言葉の二重性を見る。結局
選手の言説に意味を認めず、パフォーマンス
から感じられる当たりの良さに、売りたい双方の
思惑が一致するからであろう。
どうも私の関心は、個人と組織の関係に
集中するらしい・・・・。
生活防衛は、共産党や社会民主党、そして
民主党、公明党にとっても看板政策です。
同じ政策なら、どのように協力を得るか、
そのためにどれほどのリーダーシップを発揮
するかを訴えたら大きな希望を与えられる
だろうに、と思いますが、そのような論理
にはならなかった。
一般に、各省庁が政策を立案するので、
首相演説はそれらの寄せ集めになるのが
普通です。総理大臣は、それらの色づけさえも
あまりできない。大統領的総理大臣を実現
したいとの思いが首相の周囲には強いようで、
実際ずいぶん組織が改編されてきている
のだが、「一日署長」的大臣がいまだに
公言されているようでは、総理大臣の意欲は
アメリカの大統領のようには発揮できまい。
小泉さんには国民こぞっての支持があったが、
どれほど小泉さんの本意に沿えたかはまた
別問題であると私は考えている。首相になる前に
小泉さんが言っていた政治目標と実際に行った
政治とはずいぶんとかけ離れていたと私は
思っています。
アメリカは、どれほど誠実に問題に向かうかが
問われます。日本は、いかに政策が良いかが
問われているかのようです。でも、政策の違いが
どれほどあるのか不明です。言葉の違いには
たいへんうるさいのですが、目指す方向、やり方、
現在の状況、目的(克服すべき問題設定)を
確認した上で、広く協力を求める態度はとりません。
とる態度はまるで逆方向です。どの勢力が力を持つべきか、
覇権を握る勢力になびく、つまり勝ち馬に付く
ことが政治家の要諦で、勝ち馬がどのような政治を
行うかは、その勢力の中の「山分け」で
決めていけば良いのです。勝ち馬に付かない政治家は
その存在の価値を売り込めば良いだけです。
政治家の地位を守ることが目的だからです。
ここに官僚がつけ込む隙がありますね。
演出方法まで教示するのは序の口です。ときに
悪役さえ買って出ることもあります。
議員だけに監視せよと言うのでは、この構造は
揺るがないでしょう。勝ち馬に付きさえすれば、あとは
どうともなるという構造に十分対抗できる
力の育成が欠かせないのです。
安倍さん、福田さん、麻生さんは宰相のお子さん、
お孫さんです。田中真紀子さん、小淵優子さんも
宰相のお子さんです。小泉さん
小沢さんは議員のお子さんです。どんな
力学が働いているのか・・・・・。
期待された演説にはならなかったとの評価が
あるようですが、私は、伝統にのっとった立派な演説と
評価できるように思いました。チェンジ!と言う
言葉が、今までの悪い要素を全部ひっくり返して
良い社会にするとの印象を(勝手に、無制限に)
与えていたので、就任演説でその駄目押しを
すると期待されたのでしょう。つまり、いよいよ
世の中の改造が始まるぞと。どんな宣言から
始まるのか?と、ではないですかね。
黒人初の大統領の衝撃はどこかに吹き飛んだ
印象を与えたのが、まずずいぶんと計算されていた
ように思えます。建国の時を思い、独立戦争の
苦労と、同時に勇気を思い、南北戦争後の
リンカーン大統領の演説を思い、ケネディー
大統領の演説を思い返しています。
アメリカはまだ若い国だと希望を思い、
世界の覇者として、もう一度責任を持って
与えられた任務を担おうと呼び掛けている。
ブッシュ大統領の政治には、意識的に
深入りしない。
以上、派手さは無いが、標準的な演説で
論理としては、たいへんまとまっていて
強い意思が感じられるので、就任演説らしい
と感じます。
麻生首相の就任演説を載せた新聞を
失ってしまいましたので、語句をしっかり
点検できませんが、ざっと読んだ時の印象では
ずいぶん良くできているように感じました。
特に、生活防衛の部分は、下流大学卒業生
にも読み方を誤る心配のない平易な言葉使いで
解かりやすいと思いました。そして、こんなことは
めずらしいのではないかと思ったのです。
でもとにかく、この部分は言葉の平易さが
オバマ大統領と同じだと感じました。あとは、
これをどのような論理の中に置くかで、
力が感じられるかどうかが分かれます。
麻生首相の姿勢方針の評判があまり良くない
ようですが、オバマ大統領の就任演説と
比較されて評価されるというのはちょっと
フェアでは無いように感じます。同じ評価でも
外国のジャーナリストによる比較ではなく、また
日本のジャーナリズムの立つ位置が明確でない
点に疑問があると思います。もっと言えば、
ジャーナリズムはジャーナリズムで、欧米の
論と直接議論すべきではないでしょうか。
すべてを首相にゆだねてしまうのでは、
結局贔屓の引き倒し、無いものねだりになる
思います。あるいは内向きの意見だけになります。
首相演説の前に外国との議論があれば、それ
による論理的な筋や要求が明確になり、
それとの比較から演説を評価する観点が
生まれると期待できると考えますが。
オバマ大統領の演説の中では、私にはつぎの
言説が注意を引きました。
Today I say to you that the challenges we face
are real.They are serious and they are many.
They will not be met easily or in a short span
of time.But know this America:They will be met.
On this day,we gather because we have chosen
hope over fear,unity of purpose over conflict
and discord.On this day,we come to proclaim
an end to the petty grievances and false
promises,the recriminations and worn-out
dogmas that for far too long have strangled
our politics.We remain a young nation.But
in the words of Scripture,the time has come
to set aside childish things.The time has
come to reaffirm our enduring spirit;to choose
our better history;to carry forward that
preciuos gift,that noble idea passed on from
generation to generation:the God-given
promise that all are equal,all are free,and
all deserve a chance to pursue their full
measure of happiness.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Starting today,we must pick ourselves up,
dust ourselves off,and begin again the
work of remaking America.
光源氏が若紫を垣間見する場面から(私には適しませんが);
熱病の一種の「瘧(おこり)」の治療に北山へ向かう。
回復して、従者惟光を連れて垣間見に出掛ける。
体調のすぐれない老いた尼の勤行する姿を見る。
何人かの女房と童も見る。とそこへ10才ほどの
女の子が走り出てくるのを見る。尼はこの少女の
祖母で後見人であるが病身で兄の僧都のもとに
孫を連れて療養しているのであった。光はこの
少女に惹かれてしまう。なぜなら、藤壺に似て
いるからだ。藤壺は父親桐壺帝の妃であった。
で、若紫の父親が藤壺の腹違いの兄(式部卿宮)、
したがって若紫は藤壺の姪という設定です。
若紫の母親は亡くなっていて(その母が尼)、
式部卿宮には後妻がいますから、若紫は
継母のもとで生活するしかない将来がありました。
それが実現していないのは、式部卿宮が後妻を恐れて
引き取るのをのばしているからです。それを祖母が
うれいて、自分の死後のことを悩んでいるのです。
光は、藤壺の身代わりとして彼女を仕立てようと目論みます。
光源氏は、歌物語とは違い、唐突に盗むのではなく、
あたう限りの手を尽くして交渉するというやり方をとる。
つまり若紫の後見の人々に打診を繰り返すのである。ここに
作者紫式部の意思が働いていると見ることがで
きるのではないか。(とは、私の思いつきにすぎませんが)
それでも光の情熱の強さには、周囲の人はみな
驚きあきれる。つまりまだ幼すぎて結婚は無理ですと。
しかしほどなく尼が死ぬと乳母を強引に説得してついに
若紫に接近して盗み取ってくるのである。さらに、
それまでに光源氏は藤壺に忍んで妊娠させる
(がそれは露見せず、桐壺帝の子供として
出産され、後継となる)という不祥事を起こすのである。
この不祥事は、後々=つまり現代史において、大きな
問題となる。つまり源氏物語は大東亜戦争の前は、
まずい物語であったわけです。こんなものを大学で
研究され講義されるなんてことは認めることがで
きなかった。が戦後逆にブームになる。最近では
不倫や性の自由化の象徴にもなる理由でもある
のでしょう。(しかし、どうも時代を越え過ぎではないか
と思いますが・・・・。昔も今も同じ倫理観で見てしまい
過ぎているように私には思えますが・・・・・)
私は、作者の仕掛けの方に関心がありますね。
つまり、道長がどのように考えたか、けっして
否定的でなかった(であるから物語りは書き綴られた)
はずですから、道長といろいろ精神的な
緊張があったと想像します。
古典教材の解説を通じて、。偏向した性の枠組みが再
生産されている。古典教材を通して教育される内容が、
拉致加害者の幻想(被害者は喜んでいた、拒否していない、
など加害者に都合の良い解釈)を肯定する。学校教育
だけではない、注釈書に綴られるアカデミズムの言説もまた
同じ役割を結果的に果たしている。
このように指摘する立石さんの論には、目を見開かれた
思いがしました。これこそまったく予想もしなかったことでした。
男と女のことは、古典を読めばいっぱい出て来るから、
大学に入ってから興味があれば読んだらええ、とは
高校のとき、いや中学のときか、国語の先生だけでなく、
数学など他の科目の先生からも何度か耳にしたこと
です。何を言っているのか、と当時は聞き流していましたね。
ここまでが前半です。後半は「源氏物語」の略奪婚、とくに
紫の上に関する論議です。
まずは当時の男女の出会いと結婚に関する知識である。
女の顔を見るまで・・・・・
女の噂を聞く。数度の手紙のやりとり。
邸に上がり、女房を介しての会話。
許されて、女の声を聞く時も、物越しの会話。
最後は、几張の帷子をめくって奥に入る。
夜を共にするが、灯かりは暗く顔は見えない。
結婚するなら・・・
三日通って誠意を見せて「所顕し」の儀式をもって
晴れて婚儀が整う。男は日が昇っても帰らず、
やっと顔をしかりと見ることができる。
これでは色男はやってられない。
不良はこんなことはやらない。男の面目が
立たんやないか。男同士で競い合う、詰まらぬ
意地の張り合いもない。
「垣間見」がよく行われます。貴族のお姫様を
ちょっと盗み見することですが。
偶然見掛けることから、積極的にその機会を
伺い、実行するのです。引っ掛けるのとは違います。
いや、ちょっと言葉が適当でない。
上品さが必要なんですが、現代とは違いますから。
日記文学と物語文学。文学の発展史を考える
こともできるのかもしれませんが、そんな難しいことは
私にはとてもできませんし、また関心もありません。
ただ当時の人々の関心とどのような考え方なのかが
分かればたいへんおもしろいと思うだけです。
その意味では、「古今著問集」や「今昔物語」
はおもしろいものです。高校生のとき、ときたま
図書室で開いてみることはありましたが、通して
読んだことはまったくありません。でも関心はあります。
さて、立石さんの論議の結論はよく理解できません。私は
その議論より、いろいろと並べられている材料について
知らないことばかりということもあって、たいへん興味深く
読みました。予想とは違うというのも、論より対象に
興味を持ったという意味になりますね。
もっとも大きな論点は、
①正式な手続きを踏まない婚姻を通して、
「物語」は何を語るのか。
女性のアイデンティティをめぐって、
物語の洞察を対象化する。つまり、
流動化するが、やがて自己回復して行く過程がある。
②どのように叙述されるか。
語ろうとする欲望は、ロマンチック
に粉飾される。男の愛情の深さとか、
男のヒロイズムに回収されやすい。
しかし嫁盗みを、(敢えて)拉致と
いう言葉に置き換えたらどうか。平安文学の
「男が女を盗む話」の語られ方を対象化する
ことは、現代の「女性拉致をめぐる言説」を
捉え返す契機となるに違いない。
としています。
このような論点は、私はまったく予想もしていなかったことでした。
伊勢物語(芥川段)や大和物語(安積山段)にある盗みは、
高校の教科書に載せられているそうです。私は高校のとき
経験していません。つまり歌物語というジャンルがある
そうで、短歌をもとに、状況を創作してひとつの物語を
構成するのだそうです。ほどよい長さで話しが完結して
いるので、教科書に載せて教材とするのに適している
のだそうです。古典教科書は総じて「男が女を盗む話」を好む
としています。そして盗まれて嫁になった女が死んでしまう理由を
問う設問がつくのだそうです。ここに立石さんは、疑問を呈します。