さて源氏物語の方であるが、いまだに難しいと怖れて
読むことができないでいますが、柴山芳隆さんの「式部むらさき」
(文藝書房の文藝書房文庫08年3月発行 単行本は
01年に同じ文藝書房から発売されている)を読みました。
源氏物語を作者式部の独白として作品にしたものです。
「紫式部日記」をてこにして、物語を進める紫式部の
考えを推し量っています。物語の構想だけでなく、
式部をとりまく人々を描いていますので、なにも知識の無い
わたしにはちょうどよい「源氏物語」案内となりました。
「枕草子」「和泉式部日記」だけでなく、「栄華物語」の
(大江匡衡の正妻)赤染衛門や「往生物語」の源信も
同時代である(だけでなく、大きく影響していること。
また式部と交流?があったことなど)ことを教えられました。
さらには「蜻蛉物語」とその作者(藤原)右大将道綱の母
に親近感を持ったことも(これは推定かも?)。
さらにまた見つけました。まあ、本屋を覗いていて偶然
見つけただけですが。中公新書1965 立石和弘さんの
「男が女を盗む話(紫の上は「幸せ」だったのか)」を
読みました。
当時は一夫多妻制だし、妻訪い婚だし、略奪婚も
ありだったかなあ、なんて軽い思いで、この際読んでみるか
と買ってしまったのです。それに、エンゲルスの書いたのと
比較もできそうだしと考えてもみましたね。まあ、表紙の
題名だけで読もうとしたわけですね。でも読んでみると
ずいぶんと予想とは違っていました。先ず文章が難しい。
なんでこんなに難しい表現をするのかと不思議でなりません。
あとがきの1節を披露しましょう。
「本書には「男の幻想」という言葉が繰り返され、題名にも
「男と女」の対立が強調されているが、もちろんすべてが
ここに還元されるわけではない。関係性の実質は、相互の
社会的階層や、共同性によって方向づけられている。社会的
属性に依存して顧みず、幻想としての物語を他者に押しつける
放漫は、他者の内実を切り捨てることにもつながるが、
それを描く物語は、読者が生きる現実的な関係を映す
鏡でもあるだろう。物語文学のおもしろさ、そして怖さは、
王朝貴族社会を舞台として描かれた作品であるにも
かかわらず、現代に生きる私たちと、その社会を映し
出すところにある。読者もまた、無傷ではいられな
いのである。」
国家を縁の世界「有縁の場」、全体社会を「無縁の場」と一応考えて良
い。
でも、もっと良く考えれば、無縁は国家と国家の外の全体社会の両方に
またがる。
あるいは全体社会の外の公海や外国にさえはみ出す。このような無縁所
では、
たとえ国家の中にあっても(正確には国家と重なっていても)、国家の
外と
同じく、国家の警察権や法律が直接には適用されない。ここでは主従制
や
身分制などの「縁」の原理は働かない。その一方、ここは束縛のない
自由の場なので、有縁の価値観より経済原理が生のまま出現しやすい。
国家と全体社会の大きな乖離、全体社会の大きなコアであった無縁所の
全盛、これこそが500年にわたる中世という時代の特質である。
無縁所は4つの類型に分類される。
①絶対無縁所:境内都市や一向一揆・法華一揆の寺内町
②相対無縁所:幕府・守護・戦国大名など権力の承認がある。
東寺や上下賀茂社は御用寺社との中間的存在か。御用寺社と
はっきり言えるのは、六勝寺(白河にあった「勝」のつく6寺)や
京都5山である。
③辺境型無縁所:誰の領地でもない山野河海あるいは交通路
④無縁所内無縁所:高野山と比叡山の絶対無縁所の領域が
重なっていた和歌山の荒川荘の高野寺(高野山から追捕されると
叡山からの借金だとして叡山対高野山の争いに誘導するという
離れ業を駆使する輩も出て来ることになる)が例である。
しかしこの分類が後の発展においてそれぞれ別個の道を
たどったとかと論じることはない。網野説の批判(発展的
批判だろうが)に使われるだけだ。そして網野説の批判は
駈込みをめぐる点で厳しい。つまり駈込みは個人的なものか、
だとしても境内都市を形成するに欠かせない移民=流入民
、つまり小家族を含む生活者の移入(とその後の彼等の連帯)
とするかでまったく違うとする点である。」
ここらあたりで伊藤さんの話しは終えることとしたい。
とにかく面白いし、疑問に思う点がいろいろ出て来るし、
話しがあちこち飛ぶし、こちらが理解するには分散した
個所の話しをつなぎ合わす必要があるしと、しんどい思いもした。
それを、伊藤さんは「結局限りなく中世史大全に近づいてしまう。
ところが本書は文書と日記だけ(だから誰にもできますよ。
東大のサーヴィスをインターネットで利用すれば良いからです。
と言うのですね)を現代語訳しただけの、いわば
表面史だ。はたしてこんな大きな問題を、こういう基本的な
方法だけで解ききれるものだろうか?」と書いてすまし顔の
ようです。ずいぶんと挑発的だと思いましたね。
どうせなら送り火や葵祭り、あるいは陰陽道関係は
触れておいて欲しかったですね。
史観なるものは流行もあるでしょうし、必然的な
争闘の時代のものもあるはずです。しかし学問となると、
そして科学となると、たとえ決着は着かずとも、
公開性と議論の場を与えられてしかるべきでしょう。
さらには、証明や証拠に関する論理的な手続きを
前提にしているはずです。それらに疑義があると
主張されれば、その主張の妥当性は正当に
評価されるはずです。ただ「正当性」に議論の
余地を残すことが多いのも確かですね。いや、
ここに決着をつけさせない手段をとらせる
最後の余地=尻尾を見つけるしかないのですね。
史観か理性か。思想(派)か哲学か。
歴史家が研究意欲を高めるのが、ここに原因する
のかも知れない(といえば、お叱りをいただくか)。
やや揶揄的になったかもしれませんが、なにか
良く分かりませんが、ややこしい感情が伊藤さんの
書きっぷりから感じられてしまいました。そしてまた、
学問的ではないなと感じさせる書きっぷりを
強く感じました。この2つの違和感(普通の
啓蒙書は、もっと書く立場が解かりやすいのでは
ないでしょうか)は、互いに関係しているのか、
独立しているのかも分かりません。それがまた、
余計に違和感を高めるのですが。
がそれにしても、読んで面白かったです。
そうそうこんなことが知りたかったとあちらこちらで
思いました。がまた、どうも良く分からないなと急激な
論の展開に未消化の感を拭えない個所も多かったのでした。
で、結局ぐたぐたと書き連ねてしまったのですが、それでも
内容としては半分か三分の一ですね。
無縁所論に関して、最後に少し紹介しておきます。
社会の概念図を考えると、まず「全体社会」があり、その次に「国家」
がくるとする。国家は、領域内の人々の全生活を管理できるわけではな
く、またすべきでない。国家とは軍事・警察・裁判権を核として、
政治・行政をつかさどる機関にすぎず、国民生活全般をコントロール
するものではない。一方、人々の生活が営まれる場、及びその営みのす
べてを指して、「全体社会」と呼ぶのが普通である。全体社会は法や慣
習が予測していない現象に満ち満ちており、国家の尺度で測ることはで
きない。その価値観をあてはめることもできない。常に「国家と全体社
会は別物」ということを忘れてはいけない。けれども「国家=全体社
会」という図式は、実に陥りやすい思い込みで、おういう教科書的思考
が頭にとってはラクなのだ。中世とは、全体社会の中において国家が占
める割合が、もっとも小さな時代であった。
なお原始の「国家=全体社会」は、今日もなお幻想として生きている。
これこそ政府にとって理想の美しい国なのだ。云々かんぬん・・・(や
めておく)。
また、講義を聴講するに当たっての注意として、哲学
に関してつぎのように注意しているのも面白い。
「みなさんのなかに哲学のことをまだよく知らないという人がいたら、
わたしはその人たちに、理性を信じ、理性的認識を
手にいれたいとの欲求を持って、この世界史の講義に
出席してくださるようにおねがいしたい。もとめられているのは、
いうまでもなく、理性的な洞察ないし認識であって、
学問研究に向かおうとする人が主観的に手にいれたい
なと思うような、知識の集積は二の次です。
世界史に向かうに当たって、思考や理性的認識を
いまだ持ち合わせていない人もいらっしゃるかもしれない。
が、そういう人も、世界史のうちに理性が存在すること、
知と自覚的意思の世界は、偶然の手にゆだねられる
のではなく、明晰な理念の光りのうちに展開すること、
そのことだけはしっかりとゆるぎなく信じるべきです。」
理性をどのように考えるかでたいへん興味深いと思います。
「理性はおのれを糧とし、自分自身を材料としてそれに
手を加える。理性にとって前提となるのは理性そのもの
だけであり、理性の目的が絶対の究極目的である以上、
理性の活動や生産は、理性の内実を外にあらわすこと
にほかならず、そのあらわれが、一方では自然的宇宙
であり、他方では精神的宇宙(つまり、世界史)である。」
そして、歴史研究への態度を規定するのです。
「歴史研究の第一条件として、史実を忠実にとらえる
ことがあげられます。が、「忠実に」とか「とらえる」とか
一般的にいうだけでは、事柄ははっきりしない。自分は
史実をそのまま受け入れているだけだと歴史家が
する場合でも、かれは自分の思考の枠組みを持ちこんで、
それによって事実を見ています。とくに、ものごとを
学問的にとらえるには、理性がねむっているわけには
いかず、大いに思考を傾ける必要がある。世界を理性的に
見る人にとってこそ、世界は理性的に見えてくるのであって、
二つは互いに作用をおよぼし合うのです。」
個人の歴史、部族の歴史、国家の歴史などは、
自己および自己が属す集団の存在の様子や
生きざまを、誇りを持って、もしくは苦難を
克服する希望を持って理解するために欠かせない
ものと考えられます。司馬遷の「史記」は有名です。
「古事記」と「日本書紀」が果たして真の歴史書か
などと議論が沸くのも関心が高いからでしょう。
どの市町村にもわが町の歴史は編纂されています。
ヘーゲルは哲学的な世界史を論じるとして
先ず歴史の見方を三つに分類します。
①事実そのままの歴史;ヘロドトス、ツキジデス、
クセノフォン、カエサル
②反省をくわえた歴史;a通史(史料の編纂による)、
b実用的な歴史(過去の反省を現在に活かす)、
c批判を主眼とする歴史(歴史そのものではなく、
歴史的伝承や歴史的研究が真理かいなか、
信用できるかできないかの判断が主となるもの。
浮ついた想像力の織り成すありとあらゆる非歴史的妄想が
歴史の中に入りこむ可能性があるもの)、d概念区分にしたがう
歴史(いわゆる分野別の歴史で、近代になって多いに発達
したもの)
③哲学的な歴史;理性が世界を支配し、したがって
、世界の歴史も理性的に進行するという考え方が
哲学が歴史に向かうときの構えである。歴史の側から言えば
ひとつの前提であろうが、哲学にとっては、理性が、「実体であり、
無限の力であり、みずから自然的生命および精神的生命を
成り立たせる無限の素材であり、この内容を活性化させる
無限の形式である」ことがことが哲学的認識を通じて証明される
ということからして前提ではない。
付け加えるならば、②bにおいて、道徳的反省・教訓について
言っていることが面白い。「君主や政治家や民衆に向かって、
歴史の経験に学ぶべきだ、と説く人はよくいますが、経験と歴史が
教えてくれるのは、民衆や政府が歴史から何かを学ぶといったことは
一度たりともなく、歴史から引き出された教訓にしたがって
行動したことなどまったくない。それぞれの時代はそれぞれに
固有の条件のもとに独自の状況を形成するものであって、
是非善悪の決定も状況の中から行われなくてはならないし、
また、それ以外に決定のしようがない。世界的事件の
渦中にあっては、一般原則も、類似の出来事の記憶も、
なんの役にも立つはずがないからです。」
ずいぶんと遠回りをしてきた。しかしこれでも約半分、いや
1/3だろう。中世がどのような社会であるか、その活力と
実態について私が良く分からないからである。過去と未来、
歴史がうまくつながらない。理論ではつながる。理論というより
思想、いや教条かもしれない。これを私は知らない。そして
こんな歴史は学問ではない。科学ではないと思う。
このように表現すると、違和感を持つ人が出て来るだろう。
しかしどうもこのあたりの衝突が歴史学者の世界にはあるように
私は感じます。そして中世は武士の勃興だ、いや庶民の活躍だ
と論じられますが、寺社や寺僧は棄ておかれるままであったというのが
伊藤さんの主張ではないかと判断します。
寺社の変化と寺僧の実態、つまり経済活動の中心であり、
武士とはなにも皇族や貴族の地方へ移った武勇を誇る
家系にあるものだけでなく、武勇を誇る寺僧や寺社領内の
武士が大師(信仰)と主従関係を結ぶ形態もあり得た、ことから
成り立つ境内都市の存在が中世の中心的な存在ではないか、
このように考えられるようですね。
ただこのような考え方が「無縁所」を中心的な概念として
成り立つものかどうかが、もうひとつ良く理解できません。
縁を切って、新たに生活をはじめる。その場において
新しい縁を作る。これが新しい都市を作った。
なにか魅力が何もないということではありません。逆ですね。
縁という概念で社会は作られるのだとする哲学があるかもしれません。
が歴史学において、そうそう簡単に社会を作る概念が定義できるのでし
ょうか。
歴史というのであれば、家族、血族、部族、部族集団などから
解き明かす論が欠かせないように思います。
これではまるでマルキストになりますが、エンゲルスの
「家族・私有財産・国家の起源」岩波文庫白128−8
(原著初版は1884年だが、翻訳は1891年の原著第4版
です)のしっかりした理論的記述を読むと、どうも
研究者の恣意的な概念構成のほうに気をとられてしまうのです。
伊藤さんは、むろん「無縁所論」を示しています。網野さんの
理論への批判もしています。しかしこの無縁所論は哲学でしょう。
宗教にも大きく関係します。歴史学が哲学になってしまう点で
読むものに十分な解説なり説明がなされるべきではないかと
私は強く思うのです。
そもそも歴史とは何か。なぜ歴史を人は学ぶべきなのか。ヘーゲルは
ベルリン大学で「世界史の哲学」と題する半年単位の講義を5回
(1822−23、24−25、26−27、28−29、30−3
1)行った。
ヘーゲルの死後、弟子のガンスが講義草稿と聴講生のノートを
もとに「歴史哲学講義」を編纂して1837年に出版した。ヘーゲルの
息子が
その改訂版を1840年に出版した。(その訳本が岩波文庫青629−
9と630−0
として販売されている。これを読書会で現在読んでいるところです)
武士が国司を追い出し、荘園を支配するようになるかのように
解説されることが今までであったが、武士にも
寺社側の存在があり、王朝貴族の荘園は武士に支配されても
寺社の荘園はなかなか難しかった。
だいたい、武士が警察権を持つといっても、治安維持
などの社会の安寧に責任を持つようなものでは無い。
「検断得分」という逮捕すれば、追われた人の財は
掴まえた武士のものとなる権利があった。これを
悪用すれば、いくらでも財を増やせるのである。悪徳警察官
といったところだが、当時は当然とされていたのだ。
事実荘園の武士による侵略はなかなか進まない。
荘民が嫌がるものは、農繁期に課される労働徴発と
農閑期に軍役に駆り出されることだ。
寺社に逃げ込むのはかなり自然なことだ。逃げ込んだからといって
正義は回復しないが、寺社の中は自力救済の世界
だが、ある種大衆討議と自治の面もあるから
武士の統治下に暮らすよりよいとされる面もあったはずだ。
武士が政権をとって、幕府を開く。といって
どの程度の権力を持っていたのか。
平家の奢りは源氏の現実主義に正された。
北条氏の政権乗っ取りは足利氏の
武士階級の公正へと発展した。しかし
後醍醐天皇は天皇親政への野望捨て難く
南北朝の対立が起こってしまう。
私の荒っぽい理解ではこうなる。こんないいかげんな
理解ではとても歴史理解にはならない。げんに
自分自身で混乱して却って疑問が増えてきている。
南北両朝は、寺社の武力を傭兵的な軍隊として利用する。
そして恩賞を与える。これはこの時代の下克上を
代表することである。秩序破壊、権威失墜はこの時代の
特徴である。しかし現代まで続く伝統文化は、じつは
中世寺社に起源を持つものが多いのだ。
能の観世は興福寺から出た。
生け花は延暦寺末寺の池坊六角堂で始まった。
作庭や茶道なども寺社に始まる。
さらに寺社文化の第1位は日本語である。
日常語の多くが仏典から取られている。
寺院、いや仏教の民衆化に携わった中世の寺僧が
仏語を日常語に変えたのだ。
堺や一向宗の門前町あるいは京の町衆の自治など
という戦国末の自治都市には、中世の境内都市の自治
の歴史があったと理解できるらしい。(でもこのような理解は
私のええ加減なものかもしれないが・・・・)
でも、こんなん読んだら、疲れが倍増する、やろな
9〜11世紀、王朝貴族は地方政治を放棄し、受領に
丸投げした。彼等は道長ら有力貴族に献上して
国司に任命してもらい、一旦任命してもらうと、さらに
富裕な国司に任命してもらうよう献上する。道長の時代
を中心に、国司が襲撃を受けたり、郡司・百姓が上京して
国司の非法を訴え罷免を要求することが繰り返された。
上京した百姓はそのまま居ついてしまうこともあった。
さて、この郡司百姓の訴えが少なくなった頃から寺社の
嗷訴が盛んになる。
「嘉保の大田楽」「永長の大田楽」といわれる
祇園会の日をクライマックスに、人々が熱狂的に
田楽に踊り狂い、洛中を興奮の渦に巻き込む
出来事が起こる(1094、1098)。
この間に叡山の山僧の嗷訴があった。
日吉神社の神輿を担いで朝廷に突入する。
内裏への侵入を防ごうと関白藤原師通は
神輿を弓矢で射ることを命じた。ところが
彼は神矢を眉間に受けて重病になる。彼の母親が
神の許しを求めて祈願したが、寿命が三年しか延びず
38才の若さで死んだ(と摂関家では信じられて
恐怖の伝説となった。彼の曾孫慈円は愚管抄に書いている)。
「神輿動座」は朝廷貴族は恐れたのだ。神の崇りを恐怖した。
寺社はこれを利用した。神輿は何度も山僧によって壊された。
その再建は朝廷や院に要求された。
また1093年には、興福寺の僧侶が榊に何枚も鏡をつけた
神木を奉じて入洛し、近江国司の春日神人への暴力を
訴えている。
武士は朝廷や院にその武力を買われて警護の任を
受け持っていたが、神輿を恐怖していたらしい。
いや、そもそも武士階級なるものが、どうも正しく
理解されていないという問題があるらしい。つまり
武士は新しい時代を切り開く実力主義のどこか
清清しさを感じさせるというのは、歴史家の作った
偏った姿らしい。寺社と主従関係を持つ武士も多く、
行人や神人が武装すれば武士と変わらない。僧兵と言うと
弁慶の姿となるが、武士の姿も当然だったらしい。
ただ寺社側の武士にとっての主とは個人では無い。
弘法大師など寺社の権威者への信義であった。
1070年2月20日に、祇園社の境内として
東山から鴨川西岸堤、三条末(東の延長部)から五条末
までが認められ、不入権が発生する。(伊藤さんは
この日を境に「中世」が始まったとするのですが)。
そしてこれは叡山が不入地となったことを意味する。
また河東の白河の地はもと摂関家の別荘であったが、
1075年6月13日に、直後に関白に就任する藤原
師実から白河院(天皇)に献上される。ここに院の
御所(白河北殿・南殿)が置かれて、以後院政の
舞台となるのである。
寺社は宗教施設ではあるが、時代の先端を行く巨大建築をはじめ
先端技術の現場でもある。朝廷からの技術者職人によって
古代は建設されるが、次第に独自の技術者集団を抱えるようになり
人が集まるにつれ周囲に生活空間を有するようになる。つまり
都市機能を持つ。物資の流通と金融業(金貸し)、生産と消費
が整う。日本には当時都市といえば京の他いくらもない。ところが
寺社の境内を都市と考えれば全国に相当数の都市が存在したことにな
る。
これを「境内都市」というらしい。門前町というよりももっと
発達した都市を考えると良いという。この発見は著者伊藤さんによる
ものという。伊藤さんは書く。
「寺そのものが丸ごと都市なのだ。この事実を
初めて指摘したのが筆者で、現在学界の通説になっている。正直言って
なぜ筆者が初めてだったのか理解できない。それほどの
発見とも思わない。こんなことはとっくに誰かが気がついてい
なければならなかった。みんな目が曇っていて、寺を『宗教施設』
と決めつけていたということだ。戦国時代の一向宗・日蓮宗
寺院の境内も同じもので『寺内町』として以前から知られていたが、
これは平安時代から存在する境内都市の一形態に過ぎないのである。」
京都も叡山の末寺祇園社の力の及ぶ範囲が朝廷や院そして
幕府の六波羅探題の支配領域と境界を接するが都市機能では
叡山の力がもっとも強く働くのである。貨幣が本格的に使用されるのは
鎌倉時代からである。それまでは物々交換で米が重要な物資である。
その米は隣の近江や越前・若狭から入るが、これらは馬借・車借
という流通業者が運ぶのである。それを押さえているのが
叡山や園城寺(三井寺)そして清水寺である。また寺社は金貸業を
営む。神仏だけに借りた金を返さないとどんな
災難が降りかかるかもしれない。とりっぱぐれがないのだ。
京都や境内都市は無縁所であり、不入権を有し、ますます
人が集まるようになる。そして人が集まると疫病の大流行
は大きな厄災となる。祇園祭(祇園会)は疫病退散のための
行事である。この費用を金で潤う庶民「潤屋の賤民」が出す。
名誉を金で買うことができる。「有徳の人」の出現である。
そして「山法師」の出現だ。白河院(上皇)が、自分の
思い通りにならないものとして、さいころの目と加茂川の
水とともにあげた延暦寺や興福寺の僧兵の
大暴れがよく知られている。
終わらない。
その前に、追い出しコンパの予定が
立てば、メーリングリストで出欠を
確認する従来の方法を確実に実行して下さい。
お願いします。
終わらない方は・・・
古代に寺院が建設されたのは、国家鎮護、王城安土を
祈祷するためで、権力によるものです。宗教とはいえ(
だから?)王朝権力の都合が建てたものです。反乱、自然災害、
疫病の流行は権力に対する撹乱要因であり、権力争奪
の際に口実となります。それを鎮めるという目的を宗教的に
持つということは、多くの人を寺院と僧侶に惹きつける
結果を招く。はじめは僧は官のものです。定員制です。
しかし仏教は教学がどれほど広まったか。簡単にまとめるなら、
ほとんど広まってはいないと言うべきである。
南都仏教はむろん、天台宗、真言宗でも同じである。
なぜ鎌倉仏教が吹き出したのか。
そもそも天台や真言は死の穢れを厭う。葬式仏教は
いまでも蔑称である。しかし葬式と造墓所が広い階層に
及ぶようになるのが中世である。古代は死体は遺棄した。
京都の周辺にその個所は幾つもあった。新仏教が
勢力を伸ばしたのは葬儀と造墓が理由である。
「だいし」信仰というのがある。聖徳太子か弘法大師(空海)、
はたまた元三(がんざん)大師(18代天台座主良源=
往生要集を書いた源信の師912〜985。根本中堂を
巨大建築として再建、横川開発で寺社勢力比叡山の
創始者とされる)が対象だが、庶民信仰では区別がつかず
混交している。読めば「だいし」、書けば「たいし」である。
そして一遍が出て来る。「時宗」である。しかし当時は
「時衆」である。時衆道場が二条、四条、六条、七条の大路と
鴨川が交叉する地点の西側(今朱雀大路)にあった。
神仏習合は、神社を寺院にした。例えば祇園社は江戸時代まで
感神院祇園社で最高位「執行」は僧籍を持つ。僧が神職を
行った。10世紀半ばには興福寺の末寺であったが、叡山が
戦争を仕掛けて強奪したのだ。祭神は病気よけの「牛頭天王」
であるがその本地仏は薬師如来である。
それでは寺社に属する人々はと言うと、大きく三階層に
分けられる。
①学侶;貴族、武士、富裕民出身の上級僧侶で教学知識を持つ
②行人(神人もここに属す。呼び名は時と場所によりいろいろあった)
;武士以下の階層出身の下級僧侶。寺院や朝廷の公式行事
の雑用を行う、半僧半俗。学侶に差別されて(例えば風呂の
順番は学侶が優先される)争いになることもある。
③聖;寺に定住しない。全国を遊行して信仰を広め参詣を
勧める。時衆の宗徒である。だいたいが、中世ではどの宗派に属するか
などというと、複数の宗派に属すのが当たり前であった。
高野聖が大師信仰の時衆であるのが実態なのだ。
京は首都である。政治権力は朝廷に在る。朝廷では
天皇と公家が実権をもって政治を行う。
中央集権国家が645年の「大化の改新」によって
形成された。この際の4大改革(公地公民制、国・郡・里の
中央集権制、庚午年籍と斑田収受法、租庸調の税制)が
その特徴を表している。その後律令制国家をめざして
法令が整備され701年「大宝律令」が制定されて
整然とした国家体制が実現したことになっている。
行政組織として、中央に2官8省と衛府および諸使・諸所
があり、地方に諸国および大宰府や鎮守府がある。
国家が整備され安定すると人口が増える。と
制度が人口増加と共に増える諸問題を
うまく解決することができなくなる。ましてや、国家
体制の整備が内外から押し寄せる力による矛盾の
解消を狙ったものなら、予期した成果を十分あげられる
ことは稀であろう。さらなる矛盾の拡大や新たな問題発生
に将来の混乱を生む原因を育てることも免れることができない。
はたして藤原氏の栄華は、その半面で土地を離れ、生活を求める
人々の増加が都市の人口集中をもたらし、京都の繁栄をも
促したものであった。この歴史の流れを佐藤さんは王朝政府の
悪政による移民=流入民の増加によるものとして解き明かすのです。
つまり,悪政は公民が生活苦で縁を切ってでも生活優先を
決心させるが、この決心を実行させる理由として無縁所の存在を
指摘して中世の社会を解説するのです。網野善彦の学説「無縁・
公界(苦界)・楽」を発展させたといいます。
「縁切り」というと、縁切り寺が有名です。ここへ駆け込めば
離婚できるというお寺がありました。いまは離婚は裁判で
決しますが。無縁所というのは、ここが公権力の及ばない
領域のことで、無条件では逮捕され処罰されないし、
税を科されることもない。いわゆる「不入」権の
認められた領域ですね。なぜこんなことになったのか、
といえば寺院や神社がそのような実力を持ったからだと
言うのです。
今の新町通りが中世の洛中で
鴨川氾濫から安全な高台にあたる
「町小路」という大通りで、商家と工房
が立ち並んでいた。この南北の大通りと東西に
走る通りとの交点をその通りの
名前を付して「○○町」と呼んだ。
「六角町」(時代が書いてなかったが)
60人の生魚商人(全員女性)がいた。
「三条町、錦小路町、四条町、七条町」
祇園社に属す綿座商人80人がいた。
「四条町」延暦寺末寺毘沙門堂の子院である
常不動院の領地が在った(1343年の
財産目録による)。南に小物座の商人4人、
北に腰座商人4人がいた(全員女性)。
刀座があった。この座は、常不動院が
油小路女房なる女性から購入したもの。
四条町は日本最大の武器市場であった。
「二条町」米の販売市場。後醍醐天皇は
飢饉のときにここで米を安く売らせた。
「五条町前後八町」五条町を中心に
北は高辻小路、南は五条大路(現在の松原通り)、
東は西洞院大路、西は室町小路の約3万�をいう。
戦国時代まで地主は叡山であった。叡山が
地代を徴集する台帳にいろんな商人職人が
のっている。武士は皆無で、山僧が住んでいた。
叡山がこの地を入手した経緯は、南北朝時代に近江坂本の
日吉社の神人(じじん)の殺害事件が起こって
神人の崇りを鎮めるため「墓所」するためでったらしい。
町小路には土倉が立ち並び祇園会(ぎおんえ)の
山鉾を出す「有徳人」と呼ばれる金持ちが多くいた。
鴨河原=鴨川の氾濫危険地帯。ここは京の下町で
土倉や酒屋の立ち、京どころか日本の
芸能の中心で繁華街であると共に人口が
密集しあらゆる職業の店が商売し
実力主義が幅を効かした弱肉強食の
生き地獄でもあったという。
鴨河原と祇園社境内に住む商人・職人
をみれば当時の日本の商工業の
全業種が網羅されることとなる。
洛外は、三条から北の聖護院までを
落としてしまいました。この一帯を
「白河」と言うらしいです。東側は
南禅寺までですね。
白河院のあったところです。
三条から南側は祇園社の領域です。
五条からは清水寺の領域なりますが、
祇園大路(東山通り)から西は
六波羅探題の管轄です。そして
清閑寺に抜ける六条大路の
続きから南は法住寺殿(院の御所)であった。
中世の京都は、上京、下京、河東の
3都市からなる複合体だという。
中世とはなんぞや?とは言いませんが・・・・。
なかなか読むのがたいへんでした。
あまり親切な書き方ではないですね。
敢えて言えば、上手な書き方と評せません。
意地悪かとも思いますが、なにか学界への
遺恨が在るのかどうか。どうも尋常な書き方とは
思われないのです。
しかし知りたいことが良く書けていると評することも
可能です。でもまとめるのは難しい・・・・・・。
京の町。歴史都市です。それも強大な都市です。
しかし私の理解はあまりに少なすぎ歴史を
理解するにはまるで不足しています。
平安京が造られた時の西半分が中世にはなくなっていました。
今の嵯峨線(山陰線)円町〜丹波口の東が朱雀大路です。南限に
羅生門がある中心の大通りです。この東側=左京が
中世の京の西半分らしい。鴨川の東が「河東」や
「洛外」と呼ばれたらしいが、この部分と
平安京の東京極大路あたりまでが東半分になるらしい。
そして鴨川が洪水になるとずいぶん広い範囲で
氾濫していた。つまりいまの大和大路から
東洞院通りが洪水危険地帯で河原とである。
したがってこれより西半分が洛中で、
南北に二分されて北側が上京、南側が
下京となっていた。上と下の境は
二条大路で道幅が他の大路の倍51mもあった。
鴨川には恒常的な橋は五条大路の東端にかかる
ものだけだったらしい。牛若丸が
弁慶に襲われたのは五条橋だったわけだ。
現在の京都とつながるのは中世の京都だと
いうことが分かる。まあ南北の広がりが
だいぶ広がったが。洛中は一条から七条まで、
洛外は三条から七条までだった。
鴨川の洪水危険地帯は、流されることを
前提にした家屋がひしめき合う
雑多な活動地帯であった。
朝廷に文書が残っているのでしょうか。
幕府に文書がきちんと残されてきたのでしょうか。
天皇がどうした、藤原氏がどうした、
武士のだれだれがどうした、とは
資料が遺されていないのです。
物語はあります。名文になって残っています。
歴史書はあります。それで歴史を
解説することができる、としてきた、らしいのです。
週刊誌での井沢元彦さんの「逆説の日本史」は
人気があるようです。わたしも喫茶店で良く読んでいます。
歴史家の解説は偏っている。歴史を知らない、いや
人間を知らないと批判的です。遺された文献資料
になければ事実とはみとめない、ようでは
歴史は理解できないと言って、文献にない
人間論を駆使します。そこが人気です。
伊藤さんは、中世は寺社・神社に遺された
文書と貴族の書いた日記が資料=史料だ
といいます。そしていままでは
このような文書は史料にならないとされて来たと
言うのです。こういうことはまるで知りませんでしたね。
日本の仏教はずいぶん早くから「本地垂迹説」に
もとづいて「神仏混合」が進んでいますから、
神社も寺社もいっしょくたです。寺院の始まりは
古代ですが、中世の寺社はまるで違ったものになった。
そして近代の寺社ともまるで違う。
たしかに、荘園の本家に寺社が多い。一揆は
寺社が中心になった。ここらになると
わたしの関心と重なってきます。そうや
こういうことが知りたかったと。
面白く読めました。
ちくま新書734 伊藤正敏さんの
「寺社勢力の中世
−−−−無縁・有縁・移民」
です。
「中世」ではどうも興味を引かれません。
いままでは、ですが。古代の方に興味がありました。
世界史では、暗黒の中世、日本史では
律令制の崩壊と武士の台頭。荘園がどうした、
新宗教がどうした、民衆がどうしたと
どうも面倒くさい、と思ったのでした。
ところが、源氏物語の内容に関する
いちいちには関心は持ちませんが、
紫式部は道長とどのように戦ったのか、
といささか怪しげな関心を持ってしまい、
清少納言や和泉式部に目を向ける成行となりました。
そしてふとこの貴族の女性が日記や物語を
人に読ませる意欲を持つことに疑問を持った
のでした。
そらまあ、どんな男も話しをする女を持てば
(というような表現は「どうも違和感」がありますが、
ここでは無視しておきます)女の方も
考えるでしょう。男以上の内容を考えるかも知れません。
そんな比較はともかく、どんなことを考えるかが
表されるなら興味がありますね。と考えると
知りたくなりますね。ただ、解説書などを覗いても
どうも理解が進みません。作者やその人格などに
入りこみすぎていて、作品の語る内容から直接
理解できる以上の分析の方が主になるように感じるからです。
つまり作品を通して、解説者や訳者の思想と人間性を
理解しなくてはならないと、作者やその時代ではなく
てですから、ついて行けなくなるのです。わたしの偏見
=文系の人のこだわりなのかもしれません。
で、困ったな、と思っているところに見つけたのです。
義経はなぜ簡単に頼朝に捕まらなかったのか。
なぜ奥州まで逃げ延びることができたのか。
そら、家来が強かった。主従の結束が固かった。
世間の同情があって、逃がしてもらえた。こんな理解で
済ますことができていました。これでは政治の理解は
無理ですね。まあ今の警察力に疑問を持つ人も
多いでしょうから、いつの時代も大したことはないだろう
と高をくくるのかもしれません。
権力の恐ろしさを強調するむきは、逆に侮ってはいけない
と異常な警察力=暴力を言いたてるかもしれません。
こう言うときに歴史学が答えてくれるはずです。
根拠を示して理解できることを教えてくれる
のではないですか。そういう研究の成果ですね。
簡単なことが、幾つも不思議に感じます。
道長は、どうして大きな経済力を持つようになったのか。
政治力を集中して持つことができたのか。
天皇の外戚になったからと簡単に理解していましたが、
そのことがどのような力学で
権力となっているのかが理解できていないのです。
荘園制度がなぜ発達してくるのか。
律令制がなぜ崩れてくるのか。
律令制がなぜ行われたのか。
古代史でも不明なことは数限りなくあります。
しかし律令制以後は、単純になって
あとは社会の進歩として
理解すれば良いといった簡単な話しが
どうにも納得いかなくなって来ました。
道長と貴族の女性が能力の闘いを
行うのは興味深いですね。道長の
娘や孫はどのような闘いを意識したのでしょう。
飛鳥時代の天皇とその周囲の女王、さらには
豪族の娘との闘い(敢えてですが)に
関心が向くならば、平安時代の宮中の
貴族や藤原氏の長者と王たちとの
闘いも同じように面白いのではないか。
ここらはマルクスやエンゲルスに
頼らずに日本独自の歴史として
十分に面白そうだ・・・・・・・。
と思いつつあります。
かな・・・・。そんな偉そうなことも
言っていられないのだが。いや
資格などまるでないのだが・・・・。
まあ黙って、身近なよしなし事を
乏しい論理の道に載せて
毎日の生活に張りを持たせるしか
世に生きるすべは無い、のだろう。
とは言いながら、どういうことから
この道に踏み込んだのか、どうも
定かではない。身近とはまるで
言葉が間違っているのだが、不思議な
ことだが、自分の思いの中では
違和感がない・・・・・。???
いえ、源氏物語に少し気持ちが傾いた
ことです。それでも源氏物語は、わたしには
あまりに難し過ぎます。といって現代語訳を
垣間見てみると、どうもぴんときません。
誰が誰にどうしたという単純なことを、
原文では助動詞を使い分けて表現しています。
これを訳では人名をいちいち表現してしまいます。
こうなると助動詞の訳はダブってしまいます。
意味が理解できても、物語を読んだことには
ならないな、と感じてしまうからです。
これなら台詞を一切なくしたマンガ(コミック)
で読んだ方が良いのではないか、と思います。
あーそーか、絵巻物はその為のものか・・・・と。
幸い自分の部屋には、昨年のカレンダーの
挿絵に絵巻物がコピーして印刷されています。
なかなか風情があります。
そして、道長を生む時代、道長後の時代は
高校の日本史の授業ではほとんど記憶に残っている
ものがありません。退屈な時代と理解されている。
これが最近不満になってきました。高校生のときは
奈良時代までと戦国時代以後に関心がありました。
勉強不足でした。つまり中世への関心が極端に
低かったのです。それがこのところ不満になっています。
大学の授業が再開されただろう。
お屠蘇気分でいると、すぐに
試験期間に入る。
ここは早めに試験気分に入っている方が
良いのではないかな。
試験期間として、勉強ばかりするのではなく、
個人のトレーニングに励んで欲しい。
トレーニングだけ再開して、
試験をまだまだとのんびり構えるより、
試験だけれどもトレーニングを欠かせないと
意欲を燃やしてはどうかと、
ほとんど学生の親の気持ちになってしまっている。
口うるさい親が、のこのこ下宿まで押し掛けてきた
とでも思ってもらうしかない。
そして、トレーニングには
肉体だけでなく、頭脳の方もしっかりトレーニング
メニューを作っていて欲しい。
テニス観を向上させるのはむろんだが、
作戦、技術にも細かな研究が必要だ。
そしてそれでもまだ足らない。
何が足らないか。
頭脳にももっと緻密な配慮をして欲しいからだ。
身体をテニス的にする、スポーツ的にする、
うまく動くようにする、には考えるだけでは
だめだということも考えて欲しい。
「からだが覚える」という表現もあるように、
このことまでしっかり考えたトレーニングを
つんでもらいたいと思っています。
新春にもかかわらず、具体策は示さず、
やれ掛け声だけは勇ましい「無監督論」監督
の挨拶でした。
どうにもなりませんね。
でも、きゅうにきりりと表情が引き締まり、
言葉態度が型にはまって来ると
世の中が良くなって来たと評する人も
多く出るでしょうが、半面困ったな
と心ひそかに憂える人ももっと多く
出て来るでしょうね。でも、困ったなとは
表に出せない社会になっているかも分からないのですね。
伸びやかでゆったりとしていて、
それでいて新鮮で引き締まった
躍動感に溢れた社会をどんどん
広げたいと思いますね。
気分はどのような表現を持つものなのでしょうか。
言葉は何でも良いわけではないでしょうね。
今使われる言葉が、昔から同じ意味に使われていた
と思い込むのは大学教育の場にはないでしょうね。
いま、読書会ではヘーゲルの歴史哲学序論を
読んでいます。ちょうど真ん中あたりですが、
歴史精神なる言葉というより概念ですか、
これはヘーゲルが作ったものらしいです。
つまり歴史をこのような精神を持つ人間への
発展過程と見るなんていう理解らしいのですね。
どうもよく分かりませんが、中国やインドなどの
アジアへの偏見があるようにわたしなんかは感じて
どうにも馴染めないと感じているところです。
大学の講義を弟子や学生が記録してまとめたものらしいのですが、
こういう講義が名物講義だったのかと
思うと大学教育の目指すべき姿かどうかを
考える資料に加えておくか、と言う程度の
関心でしょうか。
物理学ではエネルギーがもてはやされた
時代の入口にさしかかるときです。
数学はずいぶん発展しています。
大学に相応しい水準になってきていると
言っても良いでしょうね。
ナポレオンは大学を卒業していたのですかね。
日本では、専門学校教育も大学にありますよ
と売り込んで、専門学校の方が競争に
負けるのではないかとすくんでいるらしい。
専門学校にも教養科目もあるのにと
地団太踏んでいるとの報道もあったが。
草食系若者なんていう流行りものがある時代。
流行りですべてが決まるかのように
思うものが多い、とは人だかりの大きい
街の住民の意識だろう。照明が当たった
範囲がすべてと、照明を当てている
人間までもが錯覚して世界の有限性を
信じようとしているのが街ではないか。
せめて、京都にいれば、闇の中に
伸びる無限世界の存在を予想して
怯えを実感するのが若者の心意気ではないか
と挑発してみたくなるが・・・・・