蒼穹掲示板

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男子は合宿です。にきの3

2009/03/08 23:09:59 麻田佳明

この伊勢(の御)なる人は、自分の恋の遍歴を「伊勢集」冒頭に
歌と共に書き記しているが、この家集とともに平安時代の歌人
にたいへんおおきな影響を与えたとのことである。伊勢集冒頭
の書き出しが 
「いづれの御時にかありけむ、おほ宮す
所ときこえける御つぼねに、・・・」
とあるが、これは源氏物語の書き出しと同じであろう。
伊勢と似た中流貴族の出(藤原倫寧=陸奥守、の娘)
である道綱母が蜻蛉日記の上巻前半部の記事構成を
伊勢集冒頭部に似せたのもこの影響の現れであるとされる。

さて、伊勢集から多くを学んだ道綱母であるが、伊勢集は
あくまで家集の域を越えない。しかし蜻蛉日記は、日記を
明確に意識をしている。さりながら、男日記ではないと
する意識も強いはず。ではその日記意識は?

解説によると、それは、歌をそれが詠まれた抒情の時々に
放置せず、みずからの人生を再構成する一齣として位置付け
ようとする歴史意識とでもいうべきものに、道綱母が
他の歌人たちよりも敏感だったからではあるまいか。(や
はり独特の言葉使いではないでしょうか。もう一つしっ
かりした意味が理解できないのですが・・・・)となります。

伊勢集の冒頭部が時代はうんと下って江戸時代に、
伊勢日記とも呼ばれたことや、在原業平の歌を柱とする
歌文が伊勢物語と呼ばれていたが、在五中将の日記
の名前をももっていたことを考え合わせると、歌あるいは
詠歌が日記と近い関係にあったことも推察できるようです。
ただ、伊勢や業平、いや伊勢集や伊勢物語を書いた
著者・編者は決して日記とは呼ばなかったはずです。
道綱母は(身の上の)日記と意識したのです。蜻蛉日記の
冒頭部分を見てみます・・・。

「かくありし時すぎて、世中に いと ものはかなく、とにもかくにも
つかで 世にふる人(自分自身のこと)ありけり。・・・・・・・
かうものの 要にもあらであるも ことわりと 思ひつゝ、たゞ臥し
起き あかしくらすまゝに 世中に おほかる古物語の はしなどを
見れば、世に おほかる そらごとだにあり、人にもあらぬ
身のうへまで 書き日記して めずらしきさまにも ありなん、
天下の人の 品たかきやと 問はんためしにもせよかし、
とおぼゆるも、過ぎにし 年月ごろのことも おぼつかなかり
ければ、さても ありぬべきことなん おほかりける。」

なんですが、なかなかの器量ではないかと感じますね。
なかなかの迫力を感じます。

OB

2009/03/07 23:50:03 麻田佳明

OB、OGのみなさん参加していただいてありがとうございます。
広瀬さんありがとうございます。お元気ですね。
木村さんありがとう。平田さんもありがとう。
杉山部長ご苦労様です、花粉症にもめげずお元気ですね。
藤原君、小林君、忙しいだろうに、ありがとう。

安藤君が元気で頑張りました。安藤・中村組三年前を
思い出しました。逢見・小山田組にファイナルで
勝ちました。逢見にはよい練習になったと思います。
最終戦は、小柳・赤木組対安藤・中村組でした。
安藤が第1ゲーム二本赤木のサイドを抜いて、
第2ゲーム目も最初に赤木のサイドを抜いて、
このペースで試合を進めるのかとびっくりしましたが、
そうでもなかったようです。折角だから、このペースで
やってみたらよかったですね。赤木がどう反応したか、
小柳が続けることができたか、ちょっと見て見たかった
のですが。

石川君のストロークがよかった。本人も予想を上回った
のではないか。花尾君もなかなかのラケット捌きでした。
器用なところを何度も見せていました。前衛に
中村さんと中瀬君、さらには宮田さんと、OBの前衛陣は
揃っていました。田部井、八木,榊山、吉永では
対応できない迫力が在りましたね。

後衛に、林君と岩崎君、前衛に富岡君が加われば、
現役が少し受けに回ることになったかも知れませんね。

現役のテニスは、まだ調整も済んでいない段階ですが、
もっと意識して段階を踏んで今年のテニスの水準に
もって行かないとまともな戦いはできません。こころして
合宿をしてきて欲しい。特に、田部井、梅原、北谷、
矢守、榊山、吉永はからだ全体の使い方、鋭さ、適確さ、
狙ってプレーすること、戦法を実行するという意識、
スポーツとしてのテニスをする意欲を大いに燃えさせて
欲しい。テニス感覚、テニス観、テニス欲をもっと
もっと本格化してコートに立ち、ボールを打って欲しい。

創造性 その9

2009/03/07 23:43:15 麻田佳明

自分と同じような条件の相手と戦う事がもっとも
予想が立てやすく戦いやすいでしょう。条件の
違う相手は、未知の部分が多くて確実な勝利を
目指すにはよほどの心構えが必要になると
考えられませんか。

同じ条件で戦う相手などいないでしょう。
結局各人が自分をいかに冷静に見ることが
できるかから始めなくてはならないのです。
独善の罠をいかにかいくぐるか。慣れの
汚染をいかに拭うか。思いこみや無知の
断崖をいかに超えるか。知らない事への
恐怖と知る事の不可能を乗り越える勇気
がどうしても見えてきます。どんなに自己の
無力を知っても、創造するしか前には
進めない。誰も担いで行っては呉れな
いのです。

そのような仲間がいるという確信を持てれば
仲間の中での競い合い、切磋琢磨は
希望の大地となるでしょう。育った希望が
もたらす果実の美味さは、生きる喜びです。

創造的に!(単に思いつきをやるだけ。
気が移ろいやすいのだ。)

合理的に!(要領ばかりに走る。強いものには
借りてきた猫になる。強いものに勝つためには、
合理的でなくては。)

機敏に!(乱暴なだけ。大人しいからと、
脅したり恐怖感を与えたりするようでは・・・・)

どうして上手と、上手な人と、強い人と、
試合をしたいのか。こちらの必死に応えて
くれるからではないか。上手は受けてしまうのだ。
そして、どのような試合でも偶然が起こる。
緊迫すればするほど、起こる偶然はなんとも
魅力的なのだ。予想もしない偶然に
わくわくするような喜びを感じたい、これが
上手い、の実際の在り様なのだ。予定の行動
で終わってしまうような試合はゲームではない。
スポーツではない。どんな試合も、勝ちを目指すなら
どれほどの差を感じようと、全力で戦うのだ。
偶然の魅力にとりつかれて・・・・・・・・・・・・・。

創造性 その8

2009/03/07 23:12:56 麻田佳明

テニスを通じてですが、人をよく観察し、その
特徴を適確に掴むことに意を注ぐ事が、なにより
必要のように思います。人を見ずに、
球だけ見てテニスをする、そのような機械人間には
テニスは、スポーツはできない。と思いますし、
としなくてはならない、でなければ面白くない。

身体的能力もむろん大事な事ですが、心の中が
いっそう大事である。その人を動かす原因、因縁
をこそ見つけることが、その人のテニスを理解する
なによりも効果のある事だとするのですね。

テニススクールが盛んですから、コーチや
インストラクターの技術が第一に注目されますが、
経済として成り立つ対象に対しては、それこそ
資格云々が摂り沙汰されるでしょうが、テニスに
憧れを持って取り組む若人には、資格云々ではなく、
環境であり刺激である、なによりも創造的な
人のつながりのなかで生活することではないか
と思います。

人をよく見るという事では、見ることを指導者に
頼るという戦い方があります。高校や中学校
では、当然とされている戦い方でもあるでしょう。
監督の指揮のもとの戦いとは違います。
監督の命令の通りに戦う場合には、ほとんど
同じになるでしょうね。監督の狙いを理解せずに
命令だからと従う場合の事です。このような
見ることを自分では放擲している場合は
テニスとは認めないというのが私の考え方です。
このように言うと、非常に強い主張をしている
ように解する人もいるかもしれませんが、テニス
パーソンには、実に当然のごく初歩的な
原則をわざわざ言葉に出していったに過ぎないと
むしろ呆れられるはずです。創造性を
否定するようなやり方はとることがないのです。

条件をできるだけ整えようとする意欲はなくす
ものではありません。しかし、条件の不備を
上達しない理由や負ける理由にすることは
創造性とは逆方向の発想です。人を見ない
発想です。条件の不備が、相手に分からなければ、
不備にはならないし、相手にその不備を利用
される懸念があれば、対策を立て易いと、有利な
条件とすることを考えるべきです。

創造性 その7

2009/03/06 23:26:38 麻田佳明

計画通りに練習するから、毎日連続すると疲れてしまう。
休みを適度に、いやきちんと十分に摂らないことには
健康を害することとなる。できれば、全天候型の
ドームコートであればよいがとなろう。コート整備も
手軽なものだ。われわれの時代なら、春先ともなれば
コート整備を入念に行いたいと体力の限りを尽くした
ものだ。自然、テニス以外の労働を、下手なものほど
(テニスの練習に時間を割きたいのは下手を意識する
者の思いである)練習時間を削られると迷惑と感じて
苦痛であったのではないか。実際は上下へだては
なかったと思う。毎日のコート整備も、練習前に白線を
石灰で引く仕事が欠かせなかった。現在でも余り変
わらないのは、雨で貯まった水溜まりを無くす「お水
取り」ではないか。もっともコートをもっと費用を掛けて
作っておけば水が溜まることはないと学生たちは
ちょっと迷惑に感じているかもしれないが。

練習環境は時代時代で変わるものと、この歳になって
分かる事であった。用具の変化も想像を超えている。
ボールだけは余り変わっていないかとも思うが、
どうも学生のときとは違うなあとの思いも拭えない。

そうそう、だいたいがルールだって変わっている。
こんなにもいろいろ変わっているが、(こういう言い方は
、お前らしい強引なものだ!とのそしりをいただく
だろうが)創造的にテニスに取り組む事がテニスの
やり方、楽しみ方だとの思いは不変ではないか、と
考えているのです。

ソフトテニス、いや軟式庭球の達人、名人、楽人
(テニす愛好の人=愛好が身体で顕せる人)を
知ると、本当に並々ならぬ創造性を思い知ります。
そして人に対する関心の高さ、したがって辛らつさ
も相当なものです。しかしエレガントでもあります。
えげつなさを脅しのように見せつけるということは
ありません。嫌味にならない限りの節度を持って
技術の可能な限り厳しく追い込みます。判断の
あやふやや独り善がりへのからかいはは痛快で
さえあります。苦しい練習に耐えた、忍耐だけを
てこにするような、修身や身分制のもとの特別扱い
を要求するようなプレーヤーにはお目にかかった
事はありません。逆ですね。控えめで謙虚な人
となりです。がことプレーとなると直接的、間接的、
育成的、いじめ的、・・・・持てる技術を使って
実に現実的に対してきます。厳しさがあります。
この厳しさを理解しないと相手にしてもらえない
という恐怖感を与えられます。こういう特徴は
先達が指導者となって不特定多数を集めて
学校で教えるということでは身につかないと私は
思っています。各人が自分を意欲的につくりあ
げてきた結果であろうとおもいます。つまり、各人
の創造性の賜物と考えているのです。

創造性 その6

2009/03/06 23:16:27 麻田佳明

誰もが何らかの憧れから始まるテニス像が作られている
ように思うのだが、どうだろう。
むろん大学から始めるという、いわゆる初心者では、
このような決めつけは、迷惑なものであろう。
したがって、このように誰にもあるであろうと書いたから
といって、特段の意味を持つものと考えないでいただきたい。
(なんという無責任な!とは思うが。でも、まあ、
ちょっとくらいは、初心者ではあっても、俺にも、私にも、
できるのではないか、やって見たい、と思わせる
魅力が感じられたという思いがあるはずだ!という
意味を汲んでもらえれば、という気持ちもあるのですが)

とにかく何らかの像があってもなくても、いやおぼろげであれ
明確であれ、実際の上達過程では、現実の今をどのように
練習するかをしっかり考えておかねばならない。
「ねばならぬ」表現は堅苦しいものだが、義務や
行儀作法の意味で言っているのではないつもりです。
自由意志に基づいて自ら進んでやると言うことは
かくなるのではないかと、言わずもがなを言っている
に過ぎないつもりです。つまり、策が必要だと言って、
どこかから上手い策を手に入れよう、どこかに転がっている
(では表現が悪い。存在しているはずだから、
少ない費用で何とか手に入れよう)はずだから、と
できあがった策を求めるのでは、目的にかなうだろうか?
と言いたいのです。与えられる情報にどこまで意味
があるのか?というより、本当に活かして使えるのか?
と考えてしまうからです。求める情報、もぎ取る情報、
つぎはぎでも作り上げる情報こそが役に立つのではないか。
役に立つことを保証された情報を求めるという
態度に、情報を活かす要素の不足を感じるのですが。

こういう議論は、年齢と世代の差が大きいと、頓珍漢になって
話しが噛み合わないことも多いのではないかと恐れない
わけでは無い。といって、私のように才が余りに少ない
のでは、議論しない方がましともなる。どうかOB・OG
諸氏の、特に若手の皆さんのお力をお願いしたいと
すがる思いです。みなさんのご厚意を当てにして、
拙い議論を止めずに・・・・・・

たとえば、この正規練習計画である。「2練1休」制
であるが、私の頃は、少しでも雨気があるとガットが
切れてしまうので、練習を休むこととなる。いや、
ボールを打たない練習に切りかえることを考える。
したがって、毎日練習と計画する。実際は雨が
よく降る(雨模様も含めて)ので、毎日練習する
ことにはならない。しかし、計画では毎日練習
だから、実情を知らなければ、ちょっとたいへんな
活動となろう。いまの学生は、雨模様は何のその、
たとえ雨が降っても怖れる事はない。したがって
雨中テニスで気をつけることは、ボールコントロールと
風邪などをひかないようにする注意である。

創造性 その5

2009/03/05 23:50:43 麻田佳明

が、しかし、果たして、文字通りに、そうなのか?と
いう話を考えている。逆の発想も同時に存在するからだ。

まったく別の視点から物事を見ないとその本質は分からない。
近視眼的に見ているだけではだめだ。一度遠くに離して、
あるいは一度その問題から遠く離れてしまって、もしくは、
まったく忘れてしまって、眺めてみるのがよいのではないか。
できるだけいろいろな角度から見てみないことには
実際のところはなにも分からない。
思わぬところに落とし穴があるものだ。落とし穴を
見つけることは、本当に難しいものだ。
それまでとはまったく思いも掛けないところに解決の
ヒントがあったのだが、その時は(つまり一生懸命に
なっていたときは)まるで気がつかなかった。
いちどバラバラに解体してしまって、つながりや関係を
忘れてしまってはどうか。

こうなってくると、上手くいったうえでの結果論でしか
語ることはできないこととなる。つまりこれから上手く
やろうという時には役に立たないこととなる。

いやはやまったく面倒な議論になってしまったが、
一所懸命になる、打ち込む、かかりきりになる、
他を棄てる、他を犠牲にする、などという表現は、
懸命になる姿にこそ評価を与えても、内容に踏み込んでの
評価でないのではないか。外目に評価できる態度であっても
本人にとっては評価できない状態であることも多いと
思うのだ。とくに外目にも練習の姿を曝さねばならない
プロスポーツ選手ともなると、外目と内容に齟齬を来さない
演出を求められることもある。大相撲、プロ野球、プロサッカー、
等の選手はそのような対象ではないか。

われわれは、このような外目の問題は捨て置いてよいだろう。

内容だけに焦点を絞ることとする。

自分の目指すテニス像をどうやって掴むか。
いや、目指すべき像はかすかではあっても掴んでいる
のではないかと、私は思うのだが。自分の経験から云っても、
小学校の時に近所の中学校生の練習風景を垣間見た
印象とその人の人となりに憧れたことがもっとも大きい
テニス像を作っていたと思う。

創造性 その4

2009/03/05 00:42:30 麻田佳明

まあ、なんであれ、平均がどうのこうのだけでなく、
分散の大きさもおもしろいと思う。すべてにおいて
散らばりが大きいほど良いなんていう乱暴なことを
主張するわけではないが、人間が何人も集まれば、
いろいろな考えがあって当然で、一つにまとまって
何の相違もないなんてのは誇るほどの価値はないと
思っている。まとまるときはまとまれば良いのであって、
まとまっていなければならないとのぼせあがっても
仕方がないと思うのだ。
おっと、話の道が逸れましたが、創造性との関連は
まとまる所には縁が遠いのではないか。三人寄
れば文殊の知恵とか、一致団結怖いものはない、
などまとまってことに当たればできないことはない
との主張はなかなか人気のものである。しかし
私は違った理解をしているのである。つまり各人の
創造性を発揮して欲しいという話の流れで云って
いるなかでは分散がある程度あるほうが良いのでは
ないかと考えている。

ところで、昨年一年間で3名の退部者が出ている。
この追い出しコンパを終えたところで松村君が退部
したとの事である。1回生と2回生に2名ずつの割り
となるが・・・・。これをしも分散の大きさだからと
容認するものではない。期待の若手ばかりだから
気持ちの落胆は大きい。残念至極である。
とはいえ、失意で元気を失うようでは退部した者にも
失礼というものではないか。よし!自分は頑張るぞと
頑張ることが一度は同じ部にあって競ったものの
心意気ではないかと思うのだが・・・・・・。

またまた話が逸れてしまったが、創造性を発揮するには、
各人が己の創造性を発揮して自分のテニスを上達
させるには、テニスに打ち込むことが望まれよう。
話はここからだ。「打ちこむ」のだから、球を打ちこめ
ばよいでは流石におかしい(いや、ちょっと口が、
もとい、筆が、すべってしもうた)。他のことを、テニス
以外のことはすべて捨て去り、テニスのことだけ考えて
練習すべきだ、という表現も大方の賛同を得るだろう。

創造性 その3

2009/03/05 00:11:58 麻田佳明

吉永、榊山は少しスタミナが足りないかな。
スタミナを持つことにもう少し意欲を持つ
べきではないかな。スタミナに関心を
持っていないのかと疑いたくなる。後衛は
スピードとタイミングに自信があれば良いが、
そうでなければ、スタミナにある程度
意欲を持つべきではないか。

赤木と矢守はまずまずがんばっているようだ。
単に我慢するだけではもったいないな。
もう少しスピードをあげる工夫をしても良い。
テニスをしている分にはスピードがあるように感じるが、
ランニングが苦手となるとその内容を
調べてみたくなる。すると足の使い方に
点検すべき所があるように感じる。赤木は
足先と足の指の使い方がなんら研究されたことが
ないのではないかと疑わさせる。矢守は膝の使い方が
テニスであれランニングであれみな同じではないか。
つまり何ら意識的な見直しがなされていないと
疑わさせるのだ。二人とも走ることについて
なにか自分の特徴(長所)を意識していて欲しい。

江口、小山田は長距離走に苦手意識が
強くあるようだ。いくら苦手でも、身体の
使い方としてもう少し工夫する余地はあると思う。
半分は歩くとしても半分は走ってみようと
挑戦すればなにか新しい発見をすることになる
のではないか。なんであれ未知の要素はあると
余裕を持って考えて試みる心がある方が
面白いのではないか。分かっているとするより、
分からんことがあるかもしれないと面白がる
と面白いことにぶつかるのではないか。

まあ、なんであれ、平均がどうのこうのだけでなく、
分散の大きさもおもしろいものだろう。すべてにおいて
散らばりが大きいほど良いなんていう乱暴なことを
主張するわけではないが、人間が何人も集まれば、
いろいろな考えがあって当然で、一つにまとまって
何の相違もないなんてのは誇るほどの価値はないと
思っている。まとまるときはまとまれば良いのであって、
まとまっていなければならないとのぼせあがっても
仕方がないと思うのだ。

始まりましたが

2009/03/03 23:49:20 麻田佳明

正規練習が始まりました。初日ということで
コートへ(杖をついて)出て見ました。
生憎と降りそうな空模様でしたが、果たして
午後練習は降雨の中で始まりました。
こうなると私の足がしくしくと痛み続
けますので、早々に引き上げてしまいました。

ということで午前の練習を1時間ばかりしか
見ることができませんでした。

女子は山口、松田の3回生を先頭に
まずまずの始まりでした。男子と同じような
状態にあるので、いま少しテニス的になるための
心配り、気配り、目配り、について注意を喚起
しました。

男子の方は、いやはやなんということかと
驚き呆れるようなストロークの状態でした。
腕が伸び切り、顔が早くからボールを打つ先へ
向いてしまい、打点が遠く、スウィングが
遅く、ボールコントロール力がまるでない。
むろんスピードも出ません。さすがに
おかしいとは感じるのでしょうが、
どうすれば良いのか、まるで対策を
持っていません。どうせ正規練習の初日だ、
こんなものだろうと、すべて初日のせい
にしてしまっています。私は呆れてしまいました。
いくら自分に都合の良いように考える癖が
ついているとはいえ、待ちに待った初日への
心構えができていないと非難することにしました。

今年のテニスをどうするのか。どのように打つのか、
どこに課題を置くのか、何に注意するのか、
点検するところ、守るところ、は明確であるべきです。
上手くできないのは当然ですが、何をするかは
明確でなくては何のための練習かというべきです。

身体の動きも緩慢です。頭がまるで働いていません。

初日のせいにして、挑戦すべき姿勢がまるで見られない
とは言語道断です。

これは非難しているのではありません。
気がついていない点が問題だということですね。

午後からの、雨の中で乱打を熱心にやっていた
姿には気迫が満ちていましたから、やっと
初日らしい練習になりました。創造的に
テニスをするということは、なかなか難しい
ことですが、頭の使い方さえ忘れなければ
進んで行けるでしょう。

創造性 その2

2009/03/03 23:18:58 麻田佳明

千々和は、シングルスでは粘りを見せるのに、
長距離走ではその片鱗も見せないと思った。
スタミナが足らないとは思えない。走るスピードが
あがっていないのだろう。姿勢が悪いのではないか。
ランニングに対する知識がかなり欠如している
のではないか。決して非難を加えているのではない。
知識が不足していることを承知していないように
思うということだ。好奇心を持てばなにか調べ
るのではないか。図書館に関係の図書を探せば
この時代である、相当な書物が見つかるはず。
そんなにしんどい思いをしなくてももっともっと
スピードをあげることは可能だと思う。テニスでは
逢見と少し似て、走ることよりストップすることに
気を回してスピードが出ないのではないか。これを
改めないと本物のテニスにはならんな。

逢見は、筋肉が見かけだけのものではないか
と少し疑問に思わせる部分がある。もう少し
軽やかさを研究するべきではないか。腰を
一定の速さに保つように走り方を工夫すれば
もっとスピードは出る。テニスをするときに
止まって打ちたがる癖が、走ることを怖が
らせることになっているのではないか。
テニスは止まってはだめなんだ。自在に
軽やかに動けなくては、コート全面を
走り回ることを怖がってはだめだ。でも
できるだけゆったりと、速くリズミカルに、
ぴたりと止まって大きなスタンスで
力いっぱい打っている、ように見えるのが
一流である。自分を新しく創造するよりないよ。

田部井、梅原(足を痛めて走っていないが)、
北谷、上田は、逢見ほどではないが、筋肉の
付き方と走る速さに矛盾がある。つまり
遅いことに疑問を感じないとは不思議としか
言いようがない。もし、走ることが苦手だと、
とくに長距離は。もしそのように考えているなら、
テニスの上達も同じだろうと思う。つまり
自分は下手だからと、上達の工夫を放棄している
と私は見る。意思のないものに上達は無い。

創造性

2009/03/02 23:58:58 麻田佳明

マラソン大会を無事終えて明日から
正規練習が始まる。今年は創造性を
テーマに新しい歴史を作る意欲に
燃えてテニスに取り組んでもらい
たいと願っている。

昨日も書いたが、創造とは新しく
作ることである。新しいものとは
今までにないものである。どこに
ないのか。京大にない、京都にない、
日本にない、世界にない、・・・・
ではあるが、まず自分にないものと
考えて欲しいと思った。人にも無い
から自分にも無い、ではない。人に
あろうが無かろうが、自分に無いもの
を新たに自分のものとすることが
創造の第一歩である。したがって、
現在の自分からずいぶんとかけ離れた
ものを狙っても簡単には身に付かない。
少しだけ離れた目標に狙いをつけるべき
であろう。夢は大きい方が良いが、夢に
終わってしまうようなものを目標に置く
わけにはいかないだろう。
大きいというより、広いもの、広く考えれば
今の自分のいろいろな個所を少しずつ
広げれば、今の自分のテニスが相当に
広がるだろうと予想できるのではないか、
こんな考え方を云いたいのだ。

その意味で、昨日のマラソンを見ていて
思ったことを書いておきたい。
中祖のタイムはもう少し(たとえば5分)
縮めることが可能ではないか。膝の
曲げ方がいわゆる開き気味で、力が
前進にとって有効に使えていないように
見える。これはヴォレーのスピードが
足らないことと同じ原因のように思える。
ポーチより、待って取る方がよいヴォレー
を目指すか。動きの速さよりポジション
を考えて取る前衛を目指すか。

小柳は、大変良く頑張ったと思う。
しかしテニスをしているときは気づか
なかったが、足の筋肉の付き方がまだ
テニスマンのものではない。スタミナが
足らない。後衛の筋肉はどの方向にどのように
動いてもゆっくり動いているように見える
べきだし、速さを感じるときは、並の速さ
ではなく相当な速さでなくてはならない。
小刻みな動きをいつまでもリズミカルに
続けられるかのように見えるプレーヤーの
足は、もっと筋肉の付き方は発達している。
小柳の筋肉は一時の速さしか可能でない。
いわばまだ子供の足である。

八木は、筋肉はほぼできているが、身体全体の
スタミナが不足している。中祖に負けている
ようでは、走ること、したがってテニスをす
ることにおいても、全体的にスタミナを配分
するという発想ができていないのであろう。
どれほどの消耗が予想されるかをしっかり
把握して、必要なだけ(つまりしっかり
勝つだけの)のスタミナを養成しておくべ
きなのだ。このように考えることから逃げて
いるのではないか。何が起こるか分からないのが
実際の試合である。勝つためには、万一を考えて
予備のスタミナも準備しておかなくてはならない。
たまたまうまくいった経験だけを頼りにしている
ようでは勝つテニスは実現できまい。

天狗童子の続きです

2009/03/02 23:10:55 麻田佳明

訂正:昨日の書き込みで名前を間違いました。「与一」
ではなく「与平」です。すぐに記憶違いを起こします。
もう一つ。完全版と冠せられていますので、このことも
付け加えておきます。

さて、
この本の誕生には著者の並々ならぬ思いが
込められているらしいのです。「原本・あとがき」
(実はあとがきが2つあるのです。「軽装版・
あとがき」と。私の読んだのは、軽装版の方です)
から抜き書きしてみます。

「・・・・ところでこの物語は、長いあいだ背負っていた
荷物のようなものでした。最初に・・・「文藝冊子」という
同人誌を出した・・・・年二回発行・・・連載する・・・
第一号は、昭和四十八年七月に・・・第二号は
昭和四十九年の九月にやっと・・・・・それっきりで
・・・「文藝冊子」は姿を消しました。・・・書きつぐ意欲を
なくしていた・・・・昭和五十八年に、新しい同人誌
「鬼ケ島通信」が出る・・・その六号から・・・十四号まで
9回で一応完結させました。・・・・そのうちに、こちら
の創作意欲も下火になって・・・・今さら・・・体力も気力
もないと・・・・。すると、あかね書房の須藤紀生さんが、
ある日(二〇〇四年だったと思いますが)『鬼ケ島通信』
にのったものを、まとめてゲラ刷りのようにした原稿を
持って、私の前に現れました。そのときの須藤さんの
口上は次のようなものでした。
「私の編集者稼業もそろそろ終わりです。最後の仕事
として、ぜひこの“天狗童子”を本にしたい。よろしく
お願いします。」
正直にいって、私は半分うれしく半分困りました。本に
するならできる限りの手入れをしたい・・・・・。そういう
チャンスと時間を与えていただいた須藤さんには、
心から感謝いたします。こんな申し出がなければ、
決して手をつけていなかったでしょうから。
二〇〇六年五月      佐藤まさる    」

挿絵も私はすばらしいと感じました。笛の音が聞こえたのも、
挿絵がイメージを先に作っていたからだと感じます。
なかなか、室町、鎌倉以降ではない物語のリアリティーは
感じられないものだと、だからそれ以降だと現代に通じる
ように、感じますね・・・・。(平安前期に関心が傾いて
いるのが最近の私ですから、こんなことも思うようです

マラソン

2009/03/01 23:42:17 麻田佳明

沼田杯マラソン(現実には、フル
ではなくてハーフマラソンですが)
は良く晴れた天気のもと無事に
終えることができました。優勝者は
中祖です。総じて3回生が頑張って
走りました。優勝タイムは詳しくは
知りませんが、77分余りのようです。
歴代首位は65分です。もう30年ほど
破られていないのではないですかね。

私はこの正月、膝を痛めて現在杖を
使っています。最近ずいぶんと復調
して来ましたから、杖がなくては
歩けないというのではありませんが、
1kmを超えて歩くときは、万一を
考えて杖を使っています。つまり
杖を使うとかなり膝への負担が軽減
されるのです。でもなければ歩けな
いということはないのです。

さて、夕食を終えると歩いているのですが、
膝を痛めるまでは45分以内でした。
これが、2週間ほど前から少しずつ
距離を伸ばして昨日からもとの距離に
戻してみたところなのです。昨日は
65分かかりました。今日は60分です。

20分とか15分余分の時間がかかっています。
正常なときは、あり得なかった時間です。
家内が同道する時でも、2分ほど余分に
かかる程度でした。ひとりで少し速く
歩くと1分ほど短くなります。

わずか5分、10分という差は、小さくはないのです。

大学の運動部の戦いというのは、
上手い下手にたいへんな差があるかのように
考えるのでは間違っているでしょう。
戦い方と体力、技術力を上手く組み合せれば
それほど差はないと考えるべきものです。
誰も考えたことがないことを、なんて
飛躍するのではなく、各自自分のやったことのない
創造的な挑戦にこそ考えるべき対象があるのです。

マラソンの数分の差に挑戦して見ること
から今年の創造性を工夫してみてはどうでしょう。

天狗童子

2009/03/01 23:20:02 麻田佳明

平安時代よりだいぶ時代は下り、戦国時代のこと。
小田原に北条氏が起こる。はじめは伊勢氏を名乗っていた。
たしか伊勢新九郎とか言ったような・・・・。美濃の
蝮斎藤道三なんかと同じような印象で小学生のとき
記憶したように思う。
ずいぶんといい加減な話しですが、
歴史というより昔話として眺める方がおもしろい、
と思うので、かくなりました。

相模の国で三浦氏が伊勢に攻められて滅びる
(歴史的には鎌倉幕府ができて功のあった三浦氏が
滅ぼされるほうが有名です)ときに、天狗に拾われた
三浦氏の赤子が、人間に半ば返って血筋を絶や
さないために主筋の者を安房の里見氏に逃がし、
自身もやがてその家来として水軍の長となる、という
のが話しの筋です。

天狗は、人間界の争いごとに直接的にかかわる
ことはしません。つまり戦争を防ぎ平和を維持させる、
あるいは人々の平安を守護するなどに責任をおうこ
とはない。しかし戦乱で乱れると貴人の子供が
捨て置かれ育てる人も周囲に一切ないという環境が
生まれることも多くなる。と天狗が赤子をさらって
天狗として育てる。修行を立派に終えれば、高位の
天狗になったり、僧侶もしくは修験者として
人間界の応援者となることを目的にするのである
(らしい)。

前置きが長くなりました。あかね書房から出た
佐藤さとるさんの書いた「本朝奇談 『天狗童子』」
挿絵は村上豊さんですが、を読みました。面白いのと、
文章が簡潔で歯切れの良さ、そして力強さに
満ちていたため、一気に読み終えました。

与一という山番の老人が手慰みの篠笛を巧みに
作り吹く腕を持っているため、大天狗に見込まれ、
木葉組のからす天狗=名は九郎丸に笛を教える
ことを約束することから物語が始まります。
二人が笛の吹き合わせをする場面を読んでいる時
笛の音が聞こえてくるように感じました。
私は音楽を聞いていると、ときに画像が浮かんでくる
ことがあるのですが、文章を読んでいるとき音が
聞こえてくることは余りありません。風の音、山の音、
など風景に伴なう音は時に経験しますが、笛の
音が、それも合奏の音が聞こえてきたのには
驚きました。佐藤さんの文章が非常にイメージ豊かな
ものだったからだと思います。

ぜひ

2009/02/28 23:27:43 麻田佳明

明日のマラソン大会。
お天気はもちそうですね。一安心です。
いつもより少し遅いめになって
いますが条件は良いように思います。

老婆心を一言述べさせてください。
走ることに懸命になるあまり
安全に気を配ることをおろそかにしては
無意味です。まず交通事故に気をつけて
ください。よほど気を締めてかからないと
どこかで緩みます。誰かひとり緩むだけでも
全員の問題です。自分さえ気を付ければ良い
という考え方では不十分です。団体戦を戦う
ときとまったく同じです。全員でひとりひとりが
緩むことがないように注意するのです。
このことをよく理解して下さい。いや
理解機会として下さい。理解したとわかる
結果を出してください。
偶然に対する十分な能力を養ってください。

3月の練習日程について

2009/02/28 21:52:23 手邊碧

女子部副将の手邊です。

3月の練習日程を連絡させていただきます。

1沼田杯2フリー3午前4一日5フリー6午前7OG戦
8フリー9午前10佛大杯11練習試合12フリー13一日
14フリー15午前16〜19合宿20フリー21フリー22午前
23フリー24午前25一日26フリー27午前28〜29大学対抗
30〜31未定


7日のOG戦当日は9時より練習、13時半より試合開始と予定
しております。
OG連絡で一度出欠確認をさせていただきましたが、当日のご参
加もお待ちしております。


また、16〜19日の合宿は大阪の服部緑地で神戸大学、名古屋
大学と合同で行います。詳細は後ほどアップさせていただきたい
と思っておりますので、よろしくお願いします。


連絡が大変遅くなり申し訳ありませんでした。
また、練習日程は練習予定のページにもアップさせていただきた
いと思っております。
明日よりいよいよシーズンインですが、部員一丸となってがんば
っていきたいと思っておりますので、応援よろしくお願いいたし
ます。

失礼致します。

28日です

2009/02/28 00:34:43 麻田佳明

さてシーズンインですね。
今年は部員各人の創造性を
発揮して自分のテニスを
作ることに全力をあげてください。
無責任に煽り立てているように
理解するかもしれませんが、そういう気持ちは
まるでありません。ただただ
各人の能力に期待するという気持ちから
出ている発言です。
創造するとはどのようなことなのか、
これをテーマに精一杯頑張って欲しいと
言いたいのです。決して、ねばならぬと
言いたいのではありません。自己に
没頭すれば、かならず進むべき道が
見えてくるだろうと、各人の能力を
前提にエールを送っているつもりです。

沼田杯マラソンの日は覗いてみたいと
思っています。お天気の方は大丈夫でしょうか、
それだけが気がかりです。
頑張ってください。

にきの2

2009/02/25 23:36:32 麻田佳明

彼の祖父師輔の「九暦」、その兄実頼の
「貞信公記」(貞信公=実頼、師輔の父親忠平)、
その子実資の「小右記」がある。これらの日記が
残っている。平安権門家の日記は、日単位で
書かれるが、漢字による漢文的なもので、
たいへん短い文で書かれた。内容は、儀式の
挙行や、事件発生を記すだけのものである。
たとえば
一日、郡盗入勧学院、
二日、使公輔朝臣奏可被祈雨事之状、
といったものである。
師輔によれば、このような日記を、朝食を
摂る前に、前日の出来事を日記につけるべし
なのである(「事多きときは日々の中に記すべし」
であるが)。
この男もすなる日記を、女が書くとなれば、漢字を使わ
ないで、仮名を使うだろう、と紀貫之が試みたのが
土佐日記である。しかし、漢字を仮名に変えること
が主となって、現実に女性が書いた日記とはずいぶん
内容が異なる。つまりその例となるのが蜻蛉日記
であった。筆者は、師輔の子兼家の奥さん(道綱
のお母さん)ですね。この蜻蛉日記は、月単位で
書かれ、歌が中心の部分は家集かとも見え、さらには
旅行や寺社参詣、夫婦間の諍いによる胸中、など
の文章が並ぶものである。これらのものに日記という
名称を与える気持ちが何か存在していたらしい。

蜻蛉日記の前半部は歌集と見ても間違いがない
のである。つまり先達としての伊勢の歌集「伊勢集」
が存在していた。紫式部は、藤原冬嗣の長男良門
の流れだが、冬嗣の弟真夏の流れ(曾孫)継蔭の
娘が伊勢である。「伊勢の御(婦人への敬称「ご」)」
宇多天皇中宮温子(お父さんは基経)に仕えた。
古今集時代の代表的女流歌人とされる。
百人一首には、
難波潟 みじかき芦の ふしの間も
逢はでこの世を 過ぐしてよとや
がある。
序詞(じょことば。芦のふし、節の間隔が共に短いことを
時間の短さに転換している)や縁語(芦、節、節と節の
間を節(よ)という)、そして掛詞(かけことば。芦の
間隔の短い節の間から時間の短さへ意味をつなぐ)など
歌詠みの技術がすぐれているらしい(もっとも私には
理解困難ではある)。
(ちとこりすぎではあるが・・・。解説にあったので、例により
興味のままに)彼女はお父さんの秘ぞッ子だった。
温子の兄仲平に言い寄られ深い仲になるが、仲平は
婿とられしたので二人の仲は破れる。これに懲りて言い
寄る男を退けるが宇多帝の寵愛を受けて皇子を生む
こととなるらしい。

にき(日記)なんですが・・・・

2009/02/24 23:28:39 麻田佳明

歌を作り、その歌の周辺を物語として、
情緒、論理、世相、義理との葛藤、
悟りないしは悟りへの努力、修行、
などを柱に観賞すべきものを完成させる、
このような作業に興味を持つ人はいる、
だろう、と私は思いますが・・・・・、自信
はありません。だって、私自身は興味が
持てませんから。でも、あれば、つまりそんな
人がいて、作品を作ったというのなら、
詠んでみよう、見てみよう、味わってみよう、
とは思いますね。人が何をどのように感じ
理解し判断するかには興味を持つのです。
興味を持てるように、才能を発揮して、見事に
満足を与えてくれる人が必ず現れると
思うのです。

ところで、土佐日記を高校のときか、いや
中3のときか、もうすっかり忘れています。
とにかく古文の時間に習ったとき、
「男もすなる日記というものを、女もして
みんものと・・・」???であったことを
思い出しました。このことをすっかり
忘れていました。「日記」といっても、
日記ではないのですね。こういうことが
面倒なんですが・・・・、まあ仕方がな
いですね・・・・。(こういうことに対して、
私は実に諦めが早いのです。すぱっと
諦めて、しんどいことに耐えるのみと
心を決めます。きめても耐えられな
くなれば、まあ、やめてしまいますが
・・・・。やめても、また時間を置いて
再度挑戦します。じつは諦めが
悪いのです。才能無しの、決められない
優柔不断の、愚鈍ぶりです・・・・。)

ここで岩波文庫 今西祐一郎校中の
「蜻蛉日記」の解説に頼ります。

道長には「御堂関白記」があります。

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