蒼穹掲示板

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もう少し技術を考えると

2009/03/23 00:20:35 麻田佳明

短い球をバンバン打つだけではテニスではない。
バンバン打って勝つ自信が持てないとテニスではない。
後衛はダブルスを想定すれば、相手前衛の機能を
考慮に入れてのバンバンであるはず、それが
練習相手の後衛のことしか考えて、いや見ていない
のではないだろうか。バンバンは練習になっていない。

と言って、それでは軽くつなげば良いか。それで
勝つことになるか、まだバンバン打つほうが
勝てるのではないか。

ボールを見てからちょうど追い付いてボールを殴るだけ
では勝てないのではないか。もっと先を読んで
どう勝つのか算段をしてバンと打つと良いのではないか、
勝つとはそのように自分の打ちかたをすることではないか。
当然相手はそうはさせじとストロークを工夫する。それを読む。
その先を考える。肉を切らせて骨を断つのでも良い。
無理をするとミスを犯す蓋然性がます。気分が続かない。
根気が続かない。だから無理は控える。ギャンブルは
仕掛け時を間違うと一挙に形勢を悪くするので危険である。
が勝負時を持て無いようでは勝負根性は養いえない。
機の熟すのを待つ、この根気が大切だ。これを練習で
養いたい。

長い球を有効に使う。つなぎのボレー、スマッシュも
憶えよう。決める球か、つなぐ球か。姿勢が悪いと
そんな選択は不可能でしかない。常に腰を安定させ
ラケットを正確に操作する。最善手から次善、三善、
とにかく相手コートに返すだけまで、選択に
躊躇は禁物。選択したらミスなく実行あるのみ。

まだまだラケットの操作が鈍い。ほとんどテニス
になっていない。沢田さんが楽々と操作して
鋭いのといかに違うか。見てよくわかるはず。
まだまだ見方が甘いのではないか。甘くないというなら、
なぜ聞かない、もっと鋭くするにはどうすれば良いかと。

軽いゴムマリ、小さなゴムマリと、軽く見るから
誤解する。試合で勝ち負けを争っているボール。
決めるにはどうするか。適時性、順序性、幾何学・力学、
頭脳力、などが必要だ。が力も必要なんだ。
必要なだけの力を、最小限度をちょっと超えればよい。
でもちょっとの力ではない。ラケットの振りに必要な力は
相当なものだ。でも腕が折れたり肩がつぶれるほどではない。
骨どころか筋肉さえ痛まない程度だ。がちょっとではない。
腰、あるいは胸か腹から直接ラケットに伝わるような
力の伝達が欲しい。肩や上腕と前腕、そして手首、最後に
ハンドルを握る手のひらと指。みんなが今やっているのは
肩から先の腕の振りだけだ。力を伝えるのは、これらの
曲がりくねった経路だが、上手く組み合せ、上手く
運動させると、体の重心から直接ラケットの面、ボールへ
力が伝達されているようにプレーできる。
これが今もっとも課題になる練習目標なのだ。

面構えから

2009/03/22 23:45:23 麻田佳明

昨日の好天気とは打って変わって
雨が降る天気でした。午前8時前に
起きてみると、あまり降っているような気配が
ないので、よし!出掛けるかと朝食も簡単に済ます気で
用意を始めました。が朝刊を取りに外へ出てみると
少し降っています。朝刊の天気予報を見ると
微妙です。午前中は5mm未満の降雨。
午後からは5mm以上の降雨との事です。
いまどきは少々の雨ではテニスができる。
試合ならなおさらだ。この時期だ、ちょっとでも
練習したい。じゃあ出掛けようと出て来ました。
少しでも早くコートへ着きたいので地下鉄を利用します。
今日は都合良く行って約30分の短縮となりました。
午前10時過ぎにはコートへ着きました。気迫が
勝ったのか雨はあがっています。

学生達は午前7時段階で結構降っていたそうで
午前練習は中止と決めて電話連絡したそうです。
なるほど、手早い合理的な処理です。少々の雨でも
雨中の練習は格好は良くとも今後のことを考えると
焦りは禁物。もしそんなことになっていたら、どうやって
風邪をひかない注意を徹底しようかと気をもんでいました。
堅実に進むことが何よりです。

午後は1時から習合して練習が始まりました。
全員漏れなく集まっています。気迫もこもって
テニスらしくなっています。貴田君も参加して
全員が練習できます(奇数のメンバーでは誰か
ひとりペアが欠けますから)。ストロークの
失敗はかなりコントロールできています。声も良く出て
足もよく動きなかなかのテニスぶりです。
空はどんより曇ってちょっと暗いのが残念でした。

前衛練習。姿勢を正して良くボールを引きつけ
迫力も感じます。もっと上手くなれ!と念じて。

しかし午後3時を過ぎると急激に空模様が悪化
して、3時半になる前に本格的に降ってきました。
で私はコートを離れました。雨具を着け傘を持って
いましたから雨に濡れることはありませんでしたが、
気温の低下と降雨にひたすら帰宅への思いが強く
なっていました。

もう少し明るく朗らかな態度が欲しい。
そして自分のことに集中するだけでなく、
仲間を良く見る目を光らせて欲しい。そんな
簡単なミスをするな!もっと正確にプレーせい!
後衛は前衛を、前衛は後衛を、相手の目を、まなこを
しっかり見て欲しい。何をしようとするか見抜いて欲しい。
スポーツの闘う姿勢をまず面構えに表してもらいたい。

陽気に誘われて

2009/03/21 23:32:59 麻田佳明

実によいお天気でした。昨日の
春分の日は風が少し冷たく、
午後からは雨模様になりました。
父の墓参りに寺へ参って
早々と帰宅の徐についてしまいました。
しかし今日は朝からお天気が良く、
ぽかぽかと暖かく風もない。
こんな春の日は、自然と足が
コートに向かってしまったものです。
こころはテニスに奪われてしまったものです。

それに桜が咲いている所もあるかもしれない。
どこか知られていない、いえ私が知らない
だけの、早咲きの桜の木が見つかるかもしれない。

ふらふらと足は京都へ、左京区へ、吉田へ
と向かってしまいました。
コートは、学生がちらほら。
西コートは、6名ほど。
1コートは空いています。
東コートは3名。2コートは空いています。
新入生の為の催しでもあったのか、
どうか知りませんが。

明日の天気がすこしでももってくれる
ことを願うばかりです。

折角だからとあちこちへ出て見ようかと
迷ったのですが、膝の調子が良くなくて
少し痛みも続くようなので、あっさりと
家路についてしまいました。

それでもやっぱり疲れてしまいました。
家に帰って夕飯の前に1時間ばかり
眠ってしまいました。

ちょっとちょっと、それじゃあ

2009/03/19 23:41:41 麻田佳明

私のは 超、駄、冗、長文になってしまうのか???

合宿ご苦労さん。疲れたでしょう。
まだ始まったばかりやから、
ここで疲れてしまってはこれから先が
心配になって来る。まあ、今日一日は
ゆっくり休んで、気合いを入れて練習に
取り組んでください。

男子の練習を午前11時から見ました。
午後の練習は、さすがにくたびれて
最後まで見ることができませんでした。
今日のような暖かさになると、日中に
外へ出ているだけで疲れますね。

さて男子の様子ですが、昨秋の実力を
回復しました。85%から90%には
回復しました。いつでも公式戦に入れます。
後は、どこまで臨戦体制に入れるか。
入ったら維持できるか。臨戦体制のままで
試合のいろいろな場面のシュミレーションをして
慣れることと、より上手くプレーすることに
どれだけ時間を掛けて根気よく練習するかで
結果が違ってきます。団結心とチームワークも
養って行くべきです。それに新入生の受け入れ体制も
万全にしなくてはなりませんから、部としての
仕事も分担して上手くこなす必要があります。
テニスのプレーだけに没頭すればよいというわけには
行かないでしょう。結構気配りも必要ですから、
心ない一言でやる気を無くすようなシーンを作らないだけの
注意も必要です。

こういうことをしっかりやれば、いややらねばならない
という段階に達しました。

これで一区切りです。
そして、これ以上のことをやるかどうかを
決意してもよいのではないかともいえますね。
若手OB・OGの皆さんにもいろいろと
感想やご意見を伺って、どうするかを
考えて見てください。
卒業生の皆さんも、ぜひコートを覗いて
現役たちのテニスを見てやってください。
後はどんどん詰めて行くだけか、もっともっと
なすべきことが抜けているか、判断してやってください。
私は、この水準である程度のまとまりをつけても
やっていけると考えているのですが。ご批判を
歓迎いたします。

梅原が意欲を燃やしている。上田も意欲的だ。
今日は沢田さんに的確な指導を二人が与えて
いただきました。私には思いつかなかった
方法で修正を加えていただき今後の向上を
期待できます。ありがとうございました。

佛大杯と合宿

2009/03/19 22:19:28 馬場 千夏

3月10日に行われました、佛大杯の結果をお知らせします。
連絡が遅くなり申し訳ありません。

佛教大学、京都女子大学、京都府立大学、京都大学の
4校、計12ペアが参加しました。


予選リーグ3位以上で決勝トーナメント進出となっています。



予選リーグ

 手邊・山口 3勝0敗 1位通過
 馬場・荒井 3勝0敗 1位通過
 布瀬・松田 0勝3敗 4位敗退
 片岡・名古 0勝3敗 4位敗退


決勝トーナメント

1回戦
 手邊・山口 ④−3 増田・伊勢(佛大)
 馬場・荒井 ④−3 入江・本田(京府)

準決勝
 手邊・山口 ④−0 松田・北浦(佛大)
 馬場・荒井 ④−0 田中・林(京府)

決勝
 手邊・山口 2−④ 馬場・荒井



以上の結果で、優勝は馬場・荒井、準優勝は手邊・山口となりま
した。


この試合で結果を残すことはできましたが、
シーズンインして初めての試合で課題も多く残りました。




今日までの合宿は、神戸大学と名古屋大学と合同で行いました。
これまで京大にはなかった練習や選手と
触れ合う貴重な機会となり、とても勉強になりました。

この合宿で学んだことを今後の練習に活かして、
春リーグに向けて頑張っていこうと思いますので、
応援よろしくお願いします。


長文失礼しました。

紫日記3

2009/03/18 23:10:22 麻田佳明

11月17日には中宮は宮中に帰るわけだが、それまでに
「源氏物語」用にと紙、硯や筆を紫式部に与えるが、
御仕えの女房達は「惜しみののしりて、「もののくまにて
むかひさぶらひて、かかるわざしいづ」とさいなむ」と書く。
宮中に戻って、11月下旬の様子を記事にし、その後里下
がりして年末に再び参内する。大晦日と正月の様子を書き、
人物批評を連ねている。まずは容姿から着る物である。
次には人となりに及び、中宮の人柄を誉める。そして、
もの書きについて批評を加える。和泉式部、大江匡衡の
妻赤染衛門、清少納言についてである。そして「かく、かた
がたにつけて、一ふしの、思ひいでらるべきことなくて、
過ぐし侍りぬる人(つまり作者自身)の、ことに行くすゑの
たのみもなきこそ、なぐさめ思ふかただに侍らねど、心す
ごうもてなす身(荒んだ心で過ごしている身)ぞとだに思
ひ侍らじ。その心なほ失せぬにや、もの思ひまさる秋の
夜も、はしに出でゐてながめば、いとど、月やいにしへ
ほめてけむと、見えたる有様もよほすやうに侍るべし、
世の人の忌むといひ侍る咎をも、かならずわたり侍り
なむと、はばかれて、すこし奥にひき入りてぞ、さすがに
心のうちにはつきせず思ひつづけられ侍る。」など
心情をポロリと書き付けるかのようになる。信心にも
筆は及び友達に手紙で思う事を書きつけるようなこと
も書いている。そして中宮が道長の邸に滞在する
夏から秋の、きっと秋の或る月の11日の記事となる。
「源氏の物語、御前(中宮の前)にあるを、殿(道真)
の御覧じて、例のすずろごと(冗談)ども出できたる
ついでに、梅のしたに敷かれたる紙にかかせ給へる、

すきものと 名にし立てれば 見る人の
折らで過るは あらじとぞ思ふ

たまわせたれば、

人にまだ 折られぬものを 誰かこの
すきものぞとは 口ならしけむ

めずらしう」と聞こゆ。
渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、
おそろしさに、音もせで何かしたるつとめて、

夜もすがら 水鶏(くひな)よりけに なくなくぞ
まきの戸ぐちに たたきわびつる

返し、

ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ 
あけてはいかに くやしからまし」
いやいや、かなり緊張しますね。

この後、1010年の1月の様子が記されて終わります。
つごう約1年半ばかりの間の日記でした。

いいお天気でした

2009/03/17 23:50:44 麻田佳明

もう冬のコスチュームは大袈裟ですね。
コートへ出て行く道すがら、たとえば
バスの中のみなさんの会話にも、
暑いわねー、もう暑くて困る、という
声がたくさん聞こえていました。私も
そうだな、汗が出て来るな、窓を開けようと
バスの窓を少しだけですが開けました。

風もほとんどなく、ぽかぽかと
よい天気です。テニスの方は、
たしかに合宿を終えたということは
分かりましたが、爆発するような
力強さを感じません。どうしたのかな?
と少しだけですが、気になりました。
午前11時から練習を見ました。

ちょっとおかしいな、と感じました。
合宿前より確かにちゃんとはなっているのですが、
ちゃんとなっていないのです。
きちんとしようとしているのは、
よく分かるのですが、きちんとなっていないのです。
下手ではないのですが、上手ではないのです。
どういう点がおかしいのか。

おかしいというところを直さないのが
おかしいのです。いや、ちょっとおかしいなとは
意識しているのですが、それを直す方法が
おかしいのです。直すはずが、直らない
方へ意識が向いているのです。

たとえば、ラケットの振りが鋭くありません。
打点が曖昧です。打点から振り切りまでの
振りが定まっていません。普通は、それならと、
打点から振り切りまでを先ずイメージして
完成させます。それを打点の少し前にラケットを
構えようとします。構えようとすると
ボールが飛び込んできます。あわてて
振り出します。上手く打てません。ますます
難く構えます。とても打てそうにありません。

軽く打つという発想がないのですね。
硬く構えてしまう。

腕の振りだけで打とうとする。胸の動きが
おかしい。腰をしっかり構えて。上半身を
使って腕を振り制球を正しくする打ち方を
作ろうとしない。
ラケットを縦に振るのか,横に振るのか、
どのような違いがあるのか、ラケットから
どのようにボールを打ち出すのか、
とにかく結果に怯えて、結果を求めようという
根気がない。

テニスが面白い、と思った初心の頃の
初心な気持ちを忘れている、としか思えない。
そういえば、あまり楽しそうに見えない。
初心の頃なら、上手く打てなくても、ラケットに
ボールが当たるだけでも楽しかっただろうに。

もうちょっと楽しそうに、愉快そうに、
嬉しそうに、プレーできないものか。
今年は創造的にコートに立って欲しいのだが。

山元さんが、昼過ぎまで女子の合宿を見て、
夕方吉田に足を運ばれました。で、いつもの所で、
二人で飲んで、盛り上がったのですが。
二人が楽しんで、学生が楽しまないのではねー

紫日記2

2009/03/17 23:17:28 麻田佳明

1008年8月「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿の
有様、いはむかたなくをかし。」と始まります。8月中旬で
しょうね。道長の娘彰子が一条天皇の子供(敦成親王)を
懐妊して道長の邸に戻って出産することとなる記事です。
「八月廿日あまりのほどよりは、上達部 殿上人ども、
さるべきはみなとのゐがちにて、橋の上、對の簀子
などに、みなうたた寝をしつつ、はかなうあそび明かす。」
月末になるとだいぶ緊張して来る、九月に入り祈祷など
本格化して「人げおほくこみては、いとど御心地もくるしう
おはしますらむとて、みな東おもてにいださせ給うて、
さるべきかぎり、この二間のもとにはさぶらふ。」状態になる。
なにせ出産は今と違って(いや今でもそうであるとも言えるが)
命がけである。死産はむろんのこと、母体の安全はなかなか
保証されない。心配は尽きない。何かあれば、その原因は
どこまでもさかのぼって詮索される。権力者にとっては
実に面倒なことである。出産が無事にすめば、未来は
開ける。なにやらギャンブルにも似た状況に置かれるの
ではないか、などと茶化してみたくもなるほどだった。
それほどの男女差を紫式部は冷静に見ていたらしい。

9月11日正午無事出産は行われた。「午の時に、空晴れて、
朝日さしいでたる心地す。たひらかにおはしますうれしさの、
たぐひもなきに、男にさへおはしましけるよろこび、いかがは
なのめならむ。」もう邸はおめでたで大騒ぎになる。次々と
儀式が行われひっきりなしにお祝いに人々がやって来る。
3、5、6、7、8、9日後の出来事を記す。10日を越えての
ある日など、道長が赤子におしっこをかけられて喜ぶ様を
記す。その後一条天皇が邸にやって来た10月16日と
17日の記事がある。11月1日は誕生後50日の祝儀が
行われた。上達部達が酒に酔っ払って大声ではしゃぐ。

なかで「左衛門の督、「あなかしこ。このわたりに、わかむ
らさきやさぶらふ」とうかがひ給ふ。」なんていう藤原公任
もいた。それでは道長は如何というと「おそろしかるべき
夜の御酔ひなめりと見て、事はつるままに、宰相の君(敦成
親王の乳母となった道綱の娘豊子)にいひあわせて、隠れ
なむとするに、・・・ふたり御帳のうしろに居かくれたるを、
とりはらはせ給ひて、・・・「和歌ひとつつかうまつれ。
さらばゆるさむ。」とのたまはす。・・・聞ゆ。

いかにいかが かぞへやるべき 八千歳の
あまりひさしき 君が御代をば

「あはれ、つかうまつれるかな」と、ふたたびばかり誦ぜさせ
給ひて、いと疾うのたまはせたる、

あしたずの よはひしあらば 君が世の 
千歳のかずも かぞへとりてむ

さばかり酔ひ給へる御心地にもおぼしけることのさまなれば、
いとあはれに、ことわりなり。」

紫式部日記を

2009/03/17 00:01:23 麻田佳明

もう止めようと思っていたのですが、つい読んでしまって、
面白くなってしまったのですが・・・・・・・。傍迷惑の
お調子乗りといったところです。

源氏物語は難しいので、紫式部が難しいのだろうと、
敬遠していたのですが、えーいままよと岩波文庫の
「紫式部日記」に手を出したのです。これがなんと
なかなか面白くて・・・・・・。しかし専門的にはずいぶんと
難しいことがあるようでたいへんなようです・・・・・・。
そもそも日記の原本が見つかっていないのですから、
果たして紫式部が実際にどのように書いていたのか
不明ということですね。後の写本を頼りに読むのです。

原本と違うところや不明の所が幾つもあるに違いない
ですね。でもそんなことを言われたら私なんかには
どうにも仕方がないですから・・・・・・。あくまで岩波
文庫のものを読むだけです。凡例には、底本として
名古屋市立図書館本を使ったが、諸本と絵詞など
他の本文資料との校勘により改変訂正を加えたとある。
また漢字と仮名の配合や送り仮名と仮名づかいなどは
適時改訂したとのことだ。また公卿らの補注が上下ニ巻
巻末にそれぞれ付いているが割愛しているらしい。
私は、しかしこのような注意がどのような意味を持って
いるのかよく分からないままです。まあ、それでも、あく
までいい加減なのですが、つまりまともな解釈は出来
ていないことが確信できますが、面白いと実感できま
した。千年前の女性の書いたものを読むという、どう
も不思議な経験です。でも、アリストテレスが、プラトン
が、タレスが、孔子が、荘子が、釈迦が、キリストが、
と平気で読んでいるのですから、訳者がすばらしい働きを
していて、しかもし過ぎている為、そのことさえ感じないで
済ますことになっている程だとも気が付かないで、読んだ
気になっていることを思えば、不思議と感じなくてもよい
のかも知れません。校注の池田亀鑑さんと秋山虔さんに
感謝を申し上げます。

どのように面白いかと言うと、実際に書いてあるようなことが
次々と起こったのであろうかと思うからです。つまり創作部分は
ないのかということです。次にそのような出来事はあっただ
ろうが、果たして書いてあるような意味合いを持っているのか。
他人の証言と照らし合わせて始めて確定することではないか。
どんな日記でも、当人が自分を飾る為いつわりを書くことは
あるのではないかと云う点です。そうして、なにか一編の
作品として作り上げたのではないかとの疑いですね。
「日記」という言葉でこれらの点を打ち消すことはできないなあ
と思うのですが・・・・・・。と思うと、彼女の人となり、実力に、
一度逢ってみたいものだ、できたら一緒に酒も飲みたいなあ、
いや道長さんは面白かったのではないか、羨ましいな、・・・
なんて思ってしまうのですが。

春合宿について

2009/03/15 21:17:49 手邊 碧

女子部副将の手邊です。

明日からの春合宿の詳細日程です。
遅くなってしまい申し訳ありません。

日程:3月16日〜19日

場所:大阪服部緑地公園内テニスコート(クレーコート)
宿舎:服部緑地ユースホステル

時間
16日:10〜12、13〜17時
17日:9〜12、13〜17時
18日:9〜12、13〜17時
19日:9〜17時


神戸大学、名古屋大学の方々と合同で行います。
シーズンインから約2週間、合宿に向けて基礎を確立できるよう練
習してきました。この合宿では、多くの刺激を受けて、それぞれ
が自分の長所短所に気づき、レベルアップできるよう、精一杯練
習に取り組んでいきたいと思います。
OB・OGのみなさん、どうぞ応援よろしくお願いいたします。

失礼します。

にきの11

2009/03/14 23:18:36 麻田佳明

明治維新は、江戸時代の幕藩体制を一新し、近代日本を
出発させる基点であった。慶応四年三月十四日(新暦
1868年4月6日)布告の「五か条の御誓文」は注目される。
この公布は、京都御所正殿の紫宸殿で、「天神地祇
御誓祭」という形で行われ、天皇の勅命によって有栖川
宮幟仁(たかひと)親王が正本を揮毫し、太政官日誌に
掲載されて一般に公布された。その漢字の書き方は
奈良時代に書かれた正倉院にある中国六朝風の
書体で書かれた写経文書にそっくりである。それに、
小さなカタカナで送り仮名がつけられている。書き方
としては奈良時代の宣命の形に倣ったものである。
明治維新が国家としての日本の確立を目指す意気
という点で、国家の曙期と同質の精神にあったと
思われる。
<いろは>は情緒の世界のものである。これに対し、
<アイウエオ>という<カタカナ>は、大槻文彦が
日本語の文法を説明するのに的確だと認識した
ものであり、また役人が漢文体を使って公式文書を
書く時に使われるような、システムを構築するものである。
明治という時代は、情緒よりシステムの構築を必要と
した時代であった。そもそも<アイウエオ>はサン
スクリット語に由来するシステムである。「阿吽」なる
言葉があるが、空海が書いた書物には、「吽」は
サンスクリット語で、「h」「u」「m」の音が合体したもの
とし、これはまた「阿」が表す初元の本体と同一であ
るとされている。真言宗の世界観からすれば「あ」
から始まり「ん」で終わるという日本語の辞書は、
宇宙の元始から始まることによって無限の存在を生じ、
そしていつか収束して再び芽となって新たな世界を
創成する曼荼羅という世界観に基づいたものなのである。

日本語は、<いろは>と<ひらがな>が1組となって情緒や
繊細さを伝え支える世界と、<アイウエオ>と<カタカナ>
が1組となって国のシステムを支える世界とで培われ
てきた。そしてこれら情緒と論理の2つの世界に漢字
はまたがっており2つの世界をつないでいるのである。

こうして、日記への興味は日本語や仮名につな
がってしまいました。するとお隣の言語「ハングル」へと
関心は向かいます。こうなると、ますます間口が広がって
収拾がつかなくなるかのようですが・・・・、それはまた
別の話ということで・・・・・・・・。

雨が降ってしまいました

2009/03/13 23:55:19 麻田佳明

予報通り雨になりました。なんとか
せめて午前中だけでも練習できないか
と一縷の望みを持って家を出ましたが、
(スタイルは完全に雨降り用にしましたが)
コートに着いた頃は本格的に降っていました。

幸いボックスには灯かりがついていましたので、
ドアをノックして誰か出て来ないかと
たずねました。馬場が顔を出したので、
先日の試合の結果を聞きました。なんとなく
予感がありましたので、どうしても聞きた
かったのです。果たして私の山勘は当たっ
ておりました。でひとくさり、言葉を掛け
てしまいました。あはー、年寄りのくどさですね。

結果を「試合結果」に報告して欲しいと思います
が、いかがですか。是非お願いします。

ちょっと思うところがあったので、お昼まで
吉田から北白川天神宮へ、何年ぶりでしょう、
歩いてみました。神社は思っていたのとだい
ぶ印象が異なっていました。なにせ55年近く
昔のことですから、ほとんど記憶もないのでした。
母校の北白川小学校の前を通り、御蔭通りを
東山通りまで西に歩いて、一条通りのいつもの
レストランに出ました。そこでいつものように
いつものメニューで昼食をとり帰宅しました。
杖を持たずに歩いたので、だいぶ膝が痛かった
です。そして疲れました。

御蔭通りでは高原町で田中神社の前を通りました。
北白川天神宮と2つの神社を見たことになります。
雨の中でしたが、半世紀ぶりに生まれ育った
土地(正確にはその周辺)を散策しました。
気持ちがよかったです。(女子の結果を聞いたからかな)

にきの10

2009/03/13 23:35:54 麻田佳明

こんなに長々と引用するなんて・・・・・。ちょっとおかしい
かも知れません。ついつい個人用のメモを引き写してし
まったとお笑い下さい。

山口さんからの引用の最後です。

日本語の辞書が本格的になったのは、大槻文彦氏の
「言海」が1889〜91年に作られてからである。我が国
最初の近代的日本語辞典である。平安時代以来これま
での我が国の辞書は、漢和、もしくは和漢対訳の辞書で
あって、純粋な意味での日本語の辞書ではなかった。
日本語辞書は、日本語で日本語を解釈する辞書でな
ければならない。そしてなによりも辞書は、文法の規定
によって作られるべきだ。文法を無視して、ただ語釈
だけを施すだけでは辞書ではないというのは、彼の
祖父蘭方医大槻玄沢(「解体新書」の杉田玄白の
弟子ですね)の影響であった。和蘭語を理解するには、
品詞、動詞の変化、時制などを知る必要があるが、
こうしたことを子供の頃から勉強させられていたのだ。

大槻文彦は、1890年日本語の文法上の原則をまとめ、
「語法指南」という書名で出版している。本来は「言海」
の付録として出版されるはずであったものが、学校
教科書としての日本語文法との要求に応えた出版で
あった。

この巻頭には、<ひらがな>と<カタカナ>で五十
音図を示し、「お」と「を」、「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」
の発音がそれぞれ口内の調音の場所が違うこと、また、
濁音、半濁音の別があることを丁寧に示している。
そして名詞に普通名詞と固有名詞があることを述
べた後に、動詞の変化を分類して、すべての動詞が
「う」段で終止形となること、そして「う」段を中心に
四段、上一段、上二段、下一段、下二段に活用する
五十音図においてよく観察できるという。これは、
本居宣長によってある程度は説明されていたことでは
あるが、大槻のこの書物が非常に近代的な方法で
より明らかにしたことであった。五十音図はここへ来て、
日本語の動詞の変化を理解するためになくてはならない
システム、不可欠の道具であることが確認されることに
なったのである。

にきの9

2009/03/13 23:27:55 麻田佳明

こうして仮名が出来て行く過程を考えることとなります。
ひらがなと かたかなが 出来るわけですが、一方は
情緒を一方はシステムを担うのです。つまり「いろは歌」
と「五十音図」です。

漢字が伝来する以前、日本には書き言葉がなかった。
書く技術を持っていたのは中・朝の帰化人達である。帰化人
の力を借りて、漢字の形の省略形を使って発音記号を
作っただろう。また日本語の音の分析もしただろう。
これには仏教徒の業績が使われたに違いない。
サンスクリット語の発音を漢字の音構造の分析に
基づいて表す技術がもたらせられていた。かたかな
の発明は必然的であった。ひらがなは、漢字の草書体
を利用して作られた方法である。はじめは草仮名と呼ば
れていた。ひらがなの呼称は江戸時代になってからの
ものという。
こうして、まず言葉を書く術がないところに漢字が伝来し、
やがて漢字の形の一部を利用するカタカナが、全体的に
デフォルメした草書体を利用するひらがなが、新しい
我が国独自の文字となっていった。
漢字で書かれたものを女性が読むことを忌む慣習があった
平安時代、カタカナは男性が漢文を読むための補助記号
として発達している。カタカナは、古くは豆仮名とも呼ば
れて漢字の大きさの3分の1以内で漢字の側に記して、
読み方などを書いていく。本来は仏教経典や漢文を訓読
して行く補助手段として生み出された。
和歌は基本的に漢語を使用しないで、大和言葉=和語
をもって作られる。これが日本語の語彙を発達させた
原動力である。次第に日本語らしい優しさを帯びた文字で、
物語なども生み出されていく。(ここに女性の働き、歌物語、
日記の位置付けがなされるとずいぶん内容のある論となった
のではないかと、勝手ですが、僭越ですが、思いますね)

もともとは外国語の言葉であるという意識のもとに漢字で
書かれ、そこに日本語としては不完全ないし不整備なも
のを表す<カタカナ>で読み方が付され、次第に生活の
中に浸透して日本語化することによって、ようやく
<ひらがな>で書かれるようになったのである。
<カタカナ>とはつまり、外来語を借用することが多い
日本語では、それを消化する過程としてなければならない
記述記号だったのである。

がーん

2009/03/12 23:48:14 麻田佳明

あれれ、目が見えていない。
いや顔が・・・・。

顔 が 願 になっている!!

にきの8

2009/03/12 23:44:03 麻田佳明

まだ山口さんの話ですが・・・・・

日本が国家としての整備を始めた頃、お手本の
唐は、『言語』を中核にして作られていた。この
ことは中国における漢字の歴史を見れば明ら
かである。『願氏家訓』(梁から隋の時代の
願之推が、子々孫々に遺した訓戒。彼の孫の
願師古は漢書の注釈をしている。太宗の勅命
を受けて、孔頴達とともに、唐の思想的基盤
を作った『五経正義』を編纂している。さらに
願師古の弟の孫である願元孫は、「科挙に
合格して官僚となった際にはこのような文字
を書くべし」と字体をまとめた『干禄字書』を
つくったが、この中の字は、彼の甥願真卿に
なるものである。))を見れば言語に対する深い
考察がわかる。(ちなみに、「名は以って体を
表す」はこの中にある古諺である)

儒教では、家を守ることはすなわち国家を
安泰に導くためのもっとも重要な要素である
として、漢代以後これを『孝』とうい言語で表現
した。願之推は、唐代に生きた子孫に、言語
を正確に使うという思想を深く教えることなった。
彼の業績として「反切」という方法で漢字の
発音を示したことがあげられる。601年になる
『切韻』に詳しい。隋から唐における、願氏一
族による言語に対する研究は、唐大帝国を
維持するための礎となった。国家にとって、言語が
大切である。国家とは言葉である。この思想は
やがて遣隋使や遣唐使で日本にもたらされる。

日本語の誕生にとって、インドすなわちサンスクリット
語の寄与も重要で、仏教の流れも無視できない。
サンスクリット語は、日本語、中国語と違って、
インド・ヨーロッパ語族に属す。表音式表記の
言語である。仏教経典のサンスクリット語から中国語
への「漢訳」が行われた。バイリンガルの人々が
行った。シルクロード中継地点に住むトルコ・ウィグル
系の人々である。その漢訳は、サンスクリット語の
音を漢字にあてはめて訳に代えるやり方であった。
つまり漢語で意訳することを避けたのであった。
これは万葉仮名の宛字による日本語の表記方式
である。中国は、政治制度や倫理において古代の
我が国に大きな影響を与えた。とともに言語においても
日本人は仏教経典を通して、漢語の持つ表意性と
サンスクリット語の持つ表音性を柔軟に使いこなす
技術を学び、「日本語による国家」を作る道を進み
始めたと言える。

にきの7

2009/03/12 23:30:31 麻田佳明

山口さんの本からです・・・・

漢字が伝来して以降、日本人は乾いたスポンジが
水を吸うように、漢字や漢文の技術を取得していったと
思われる。日本人は中国、朝鮮半島との交流が
始まった古代からずっと、第二次世界大戦が終わ
るまで、漢文ないし漢文訓読体を公文書の
書式として使ってきた。現在残っている、日本式の
漢文の先駆けとなって流布したもっとも有名なもの
は、604年に書かれた聖徳太子による「十七条憲法」
であろう。「論語」(=東アジアに在って、政治のみな
らず人倫の規範を説いた書物と解せられる。したがって
国家のシステムの模範とされる儒教のテキスト)と
「千字文」(単なる漢字習得のテキストにとどまらず
儒教によって構築された宇宙全体を包括し、しかも
同時にこの世を輪廻の一片と見る仏教思想を
伝えるテキスト)に代表される中国六朝時代の思想を
反映し、しかも日本的な咀嚼がなされていると
見ることができる。これは、中国から「書き言葉」
として伝来した漢文を日本的にアレンジしただけ
ではなかった。漢字を通してもたらされた儒教と
仏教の思想を、日本人が理解しやすいような
かたちで埋め込んである。これが著された
ころの東アジアの国際情勢は緊迫していた。
開戦間近という情勢を海の向こうに見据えて
制定された「十七条憲法」は、中央集権化を
進めることで政権を安定化させ、さらに、国家
としての独立を保とうとする意味でも重要であった。
この中央集権化という国家戦略は、聖徳太子の
作り上げたシステムを踏襲して押し進められた。
701年の「大宝律令」はその結実ではないか。

これによって国家体制は確定し、さらに統一
国家としての独立性を完全にするべく、一層の
細かな国際情勢の情報収集が必要となる。
さらにそれらの情報を踏まえた内政における
新しい制度施行も重要な課題となって来る。
この時代の日本語状況を物語るのが大伴家持
である。一般には万葉歌人として、もしくは
万葉集編纂者として有名であるが、祖父安麻呂、
父旅人と共に政治家として活躍している。官位
剥奪、埋葬不許可の扱いを受けているのである。
彼が政治的人間でもあり、同時に漢文の教養を
広く持つ人で、笠女郎(かさのいらつめ)と
恋いの歌をやりとするなど、日本語ならでの
言葉遊びも繰り広げている文化人であるという
ことの意味は深い。つまり、中国からもたらされた
漢字を使って、日本人はこの奈良時代までに、
心の襞をも十分にあらわし得るような日本語の
表現を作り出すことに成功していたのである。

にきの6

2009/03/11 23:43:23 麻田佳明

一口に、国風文化 とは言っても、国粋主義的な
思想潮流を考えるのは、あまりに一面的ではないか、
とも考えさせられる。聖徳太子や蘇我馬子、
天智天皇や中臣鎌足、などの時代から、
日本国や日本人の意識をどのように具体化するか
に取り組む時代へ移り変わってきた。そのとき、
王朝貴族とその政治が、治めるべき領土と民を
本当に治めていたのか、その実態が政治に
値するものだったのか、未熟なところはどこで、
問題は何であったか、・・・・・と歴史を見る目を
意識する所に立ったように感じる。

新潮新書 244 山口謠司さんの
「日本語の奇跡
<アイウエオ>と<いろは>の発明」
2007年12月発行

を読みました。だいぶ前に買っていたのですが、
読んでいなかったようです。ふと本棚にあるのを
見つけたのです。以前には探すべきものを持って
いなかったためでしょう、さして面白く感じなかった
のでしょうね。はじめの方で挫折してしまったよう
ですが、今回読んでみるとたいへん面白く感じ
ました。一気に読んでしまいましたね。でも、
「我が国の歴史や文学を学ぶというのは、自分が
拠って立つところを知るということに目的があろう。
世界の最先端の知識や技術を古代からずっと
受け入れながら自国の文化を創って来た日本。
その背景には様々な文化を受け入れ、そして
咀嚼することを可能にする非常に柔軟な「日本語」
という言語環境があったのである。」
という言い方には、少しだけですが、違和感を感じます。

原因と結果、つまり因果関係が逆転しているように
感じてしまうのですが・・・・・・・。

私の違和感はともかくとして・・・・・

せんだって新聞(朝日新聞朝刊ひにちは?)に
源氏物語を紫式部が書いたときの平仮名は
こんな文字だったかとの記事が在りました。
紙切れの年代測定の結果だそうです(もっとも
測定は紙切れのもので、書かれた文字のもので
はないとの批判も載っていましたが。)

にきの5

2009/03/10 23:56:15 麻田佳明

そして当時、物語が「大荒木の森の草より繁く、
荒磯海の浜の真砂よりも多く」書かれているが、
それらは、「木草山川鳥獣魚虫など名づけたるは
もの言はぬものにもの言はせ、情けなきものに
情けをつけた」物語や、軽佻浮薄な恋愛物語
ばかりだという。というものです。そして、道綱母の
蜻蛉日記については、自らの人生を、日記という形で
表現したと書いています。結論として、時代は
「古物語」では描きえなかった、今を生きる
人々の喜びや悲しみを描く、新しい文学を要求
していました。まさに、そのような時代に書かれたのが
「うつほ物語」なのです。わが国の長編物語の世界を
切り拓いたのは「うつほ物語」です。これが
書かれたことによって、「源氏物語」が成立した
と言っても過言ではないと思います。
と書いています。

このビギナーズ・クラシックスは、抄録です。
話の筋をたどることに偏っていますから、作品を
味わう、理解する、ということではだいぶ
不足するでしょうが、読んで面白かったです。
琴を巡る不思議な話です。ペルシャにまで行って
手に入れた琴が活躍するのです。なかでも
面白いのは、仲忠(主人公清原俊蔭の娘が
生んだ藤原兼雅の子)と嵯峨の院のご落胤
源凉(みなもとのすずし)のどちらが琴の名手か
という論争が当時行われたということですね。
小説を読んで、誰が好きと言い合うとか、名所
旧跡が生まれるなんてのは、小説がいかに
評判を呼んだかを示しますから。

平安中期、藤原公任の「公任集」には
円融天皇のとき宮中で両者の優劣論争が
あったことが記されているらしい。また
「枕草子」には、中宮定子のもとで論争があり
定子が仲忠非難をすると、清少納言は
仲忠の腕前を誉め、さらに結婚相手では
仲忠は帝の娘と結婚したが、凉の相手は
帝の娘ではないと弁護している。

源氏物語を生む背景は、ずいぶんと世の中の
発展があり、そしてまた政治の爛熟(という表現
の適否は詮索しないこととして)があったように
感じられる。結婚制度の変革も起こりつつあった
のだろう。生き生きと人々は生きていた、などという
興ざめな借り物の表現はさておいて、退屈な
王朝生活に咲いたあだ花というようなものではない
なあと、私は興味が増しているのですが。

にきの4

2009/03/09 23:13:58 麻田佳明

解説(岩波文庫 今西祐一郎校注 「蜻蛉日記」の解説)
は続きます。
もっともこのような意識、つまり緩やかな日記意識は、
家集を編むほどの歌人たちには、あるいはまた家集
を享受する側においても、ある程度共有されて
いたであろう。道綱母は蜻蛉日記上中下三巻を通して
歌を主とした文章ばかりを書いたわけではない。多くの
歌を擁する上巻はじめのほうでさえ、はやくも自作の歌を
交えぬ文章が見られ、上巻後半部の母の死、兼家の大病、
初瀬詣でなどの文章を経て、中巻に入るとさらに歌は減り、
それに反比例するかのように夫兼家との噛み合わぬ胸中の
思いを綴る文や唐崎、石山への旅の記事が次から次へと
紡ぎ出されてゆく。その一方で興味をそそられるのは、
中巻から下巻にかけて、時折顔をのぞかせる、日並な
記事である。上巻には見られなかった、このような日単位の
記事は、蜻蛉日記の出発時には無縁のものではないか。
きっとはじめは手元に歌稿に頼って綴られたが、書き継ぐほどに
変貌を遂げたということではないか。下巻になると、老後を案じた
道綱母が養女を取る経緯の記事があるが、自身が交渉の
場に出向いたのではなかった。しかしその文章はその場を
見てきたように語る。すなわち一人称の視点が原則のはずが、
特別顕著な超越的視点をもって描かれ、物語的に構成され
ている。これも道綱母の試行の手探りの一つであったろう。
蜻蛉日記に道綱母の人生における手探りや模索が書かれ
ているということは、すでに大方の認めるところ。だがそれと
同時に、書くことの手探りや模索に満ちた作品であるという
ことも劣らず重要な事柄であり、文学史上の大きな魅力である。
仮名散文の成立という平安時代文学史の達成を、蜻蛉日記は
その個体発生の過程で期せずして試みた作品であった。

ついつい興味にひかれて、人の知識に威を借りてしまい
ました。文学史なんかにちらとでも入るつもりはないのですが。

まあ、いまさらの感もありますので、開き直って・・・・・・。

角川ソフィア文庫A24 ビギナーズ・クラシックス
日本の古典 「うつほ物語」宮城秀之編 の解説を
見てみますと、蜻蛉日記と同じ時代に、源為憲(?〜
1011)が985年に、冷泉天皇の第二皇女 尊子
内親王のために書いた仏教説話集「三宝絵詞」の
序文が紹介してあります。すなわち、仏法の妨げに
なるものとして、碁と琴についで物語をあげている。

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