逢見が元気に現れました。早速新旧主将対決で
マッチをしていました。また大恵と乱打をしている様子を
私は嬉しく眺めました。ちょっと大恵のストロークが
乱れているので良い刺激になるでしょう。
吉永がやっと力を集中するGストロークを見せてくれました。
短い球や長い球になると、つまり前後に5歩以上走るべき
球になるとまだ力抜けてしまいますが、可能性を見せて
くれたことはうれしいことです。このシュート打ちから
足の長いロビングをいくらでも打てるようになれば後衛になるでしょ
う。
矢守もなんとかスピードを生かしたボールコントロールを
ものにする可能性を見せてくれました。力の弱さ、プレーの
拙さが目立っていましたが、スピードを活かせば、
この弱点は急速に消えうせるでしょう。スマッシュをもう少し
研究する必要がありますが、可能性は見えました。
吉永、矢守はいまやキーパーソンに位置付けられて
しまいます。苦しいでしょうが、期待に応えてもらうしか
打開策はないのです。今日はなんとか可能性が見えた
と私はたいへん嬉しく思いました。
昼を摂って午後練をコートで待っていると
とことこと見なれたご夫人が入って来るではありませんか。
うん?広瀬さん?なんで?
女子の練習があるものと練習に参加するつもりで
出て来てくれたのです。そうか、予報を変えてでも
天気を夏にするわなあ・・・、と日本の気象庁に感謝しました。
折角出て来て、一本も打たずに帰るのでは申し訳ない。
女子の先輩にもテニスをしているOGが存在している
ことを現役にも、男子現役にもしっかり認識していて
もらいたい。乱打の相手をしてもらいました。沢田さんにも
ひと汗かいてもらいました。女子OGがテニスで男子現役
の練習に参加してもらうことができた。嬉しい限りです。
愉快です。楽しいです。
広瀬さんとは、ずいぶん話しをさせてもらいました。
テニスの話しをいろいろ。普段山元さんと
話すようなことをです。流石に現役で続けているだけあって、
私の拙い知識程度では、すべて経験済みで話しが弾みました。
私にはとっても楽しいテニス談義でした。
歳をとったせいか、話し相手になってもらうと、
それだけで嬉しいのでしょうね。
そしてみんなこの2週間、少しずつではありますが、
確実に前進していることが嬉しかったですね。
ただ、もっと求め、もっと表現しないと。
訴える力が弱いです。この夏の暑さに負けてしまいます。
この暑さを跳ね除ける熱いテニス心をコートに
輝かさないと訴えることはできません。
訴えることが、テニスをすることなのです。
夏のテニスは、訴えるテニスです。全日本は
ぎらぎらした熱の塊で戦うのです。
そしてわれわれは、正しいテニスを力を込めて
訴えるのです。印象付けるのです。
真夏の天気でした。予報では午後はいつ降っても
おかしくないとのはずでしたが、かえって青空が
白雲と共にあらわれました。日射はぎらぎらと
容赦のない熱さです。とても堪らず木陰で
練習を見ていました。
なんとか頑張って夏のテニスに取り組んでくれました。
もう少し迫力が出ると良いのですが、もうふた頑張りが必要です。
でもなかなか様になってきました。
特に前衛は、1回生の新鮮さが良い意味で機能していますから、
やる気が直ちに反映します。それと
3回生北谷と矢守が自分を出すことに集中して来ましたから、
しまってきました。残念なのは、小山田が右足先親指を
怪我してしまい昨日今日と練習ができないことです。
江口一人が頑張っていますが、影響は大きいです。
月曜も休んで、火曜から練習ができるかもしれません。
しっかり手当てをして化膿などしないように十分注意を
して欲しいと思います。焦ってはだめですが、直すことも
練習のうちと心得て、なんとか一刻も早く練習に参加することです。
さて今日は本当に楽しい思いをたくさん味わいました。
岩崎君と林くん、沢田さん、花尾くんが出て来てくれました。
練習が締まります。水準が上がります。今日のような
真夏日に炎天下のコートにしっかりテニスをしてもらえると
はすばらしいことです。
岩崎くんは、今日を最後に京都を離れるそうです。いよいよ
社会人として飛び立つのです。うれしいことですね。はなむけに
テニスを同時に進めてくれるよう願いました。
京都選手権大会で、テニスをまとめたのであろう、
予想はしていたのだが、やはりそうであった、と
久しぶりにコートを覗いて思った。
まとめることは、それだけで直ちに咎めるような要素を
持ってはいない。あくまで状況次第である。
私が気にしていたのは、西日本大会に参加しない
決心をしたので、その影響を心配してのことである。
参加を決意しておれば、今ごろは相当目の色変えて
練習に励んでいるはずだからである。なにも不参加を
選んだからといって、やはり気が抜けていると指摘している
のではない。全日本を意識して、気を入れて練習している、
例年の2倍は気を入れている、と自覚していると、反発を
買うような予想さえしている。問題は気持ちの持ち方は
ある程度意欲の問題として取り組むことができるのだが、
ついつい気持ちばかりに意識が向かって、テニスの内容に
意識が向かない、ことになるのではないかと、疑わない
可能性、いや蓋然性を言いたいのである。つまり、いま
どのようなテニスがテーマとなっているのか?を第一に
意識しているのかどうかと、問いたいのである。
手打ちになっている。脚と腰を、胸を腹を使ってはいない。
後衛のストロークは先ず第1番だが、前衛のストローク、
レシーヴから始まる一本一本である、そしてスマッシュが
弱い、さらにはヴォレーである。特にヴォレーは、一本一本が
大切なのだ。守りの一本、相手の意図に対応する一本、
流れ弾のような一本、勝負の一本、これらの重みの違い、
試合の流れの中での意味の内容、結局はどのようなテニスなのか、
どのように戦うのか、どうやって勝つのか、と直接つながっている。
ここを理解してプレーする、これを練習していなくてはならない。
これが見えない。練習を練習しているだけ。時間が勿体無い。
テニスをする時間は、わずかしかない。上達にはどれほど
練習が必要か、次官が不足している。合理的な練習だから、
ミスの時間を、上達する時間をたっぷりとらねばならない。
合理的という言葉は、時間が不用を意味することはない。
この間違いがある。
すべてのスケールが、小さく弱い。手打ちとは、このことだ。
まとめたとはこのことだ。悪くはないが、目的を忘れているとは
このことなのだ。
声が出ない。出せない。これも目的を忘れた証拠となる。
FSに決意が表れていない。いや表せていない。これでは
テニスにならない。ロブが振り回しになっている。これはロブではな
い。
ロブはペアで打つものだ。
明日は、雨が降るまで、夏のテニスをテーマに、自分の能力を
賭けて思いきり励んで欲しい。
「人間は自然的には利己的であるか、あるいは単に局限
された寛仁を付与されているに過ぎない。したがって、
赤の他人の利を計る行動を履行するのでなければ
代償的利益を得る希望が無いと見るときを除いては、
容易にそのような他人の利を計る行動を履行するように
誘致されないものである。ところで頻繁に起こることであるが、
かような相互履行は同じ刹那に完了することができない。
したがって一方は、他方へ与えた好意の返しを実際に
受けられるか否かについては不確実のままに甘んじて
留まらなければならない。しかるに、人間の間の道徳的
腐敗は極めてひどい。したがって一般的に言えば、
かような他人の感恩に依存することは極めてわずかな
保証になるだけである。かつまた、上の場合では、
恩恵を施す者は自利を心のうちで見て恩顧を施すと
想定されている。したがって、このような恩顧の施し方は、
責務の念を抹消するとともに、利己心の具体例ともなる。
そしてこの利己心こそ、背恩の真の母なのである。」
「その方法が無益であることが明白である場合に、
いったいなぜ労働者はストライキをおこなうのか、と
問われよう。単純明瞭である。労働者は賃金の引き
さげ、さらにはこのような引き下げの必然性にたい
してさえも、抵抗しなければならないからである。
労働者が黙っていると、このような状況を認めること
になるだろうし、好況期には労働者を搾取し、不況
期には飢えさせるブルジョアジーの権利を認めること
になるだろうからである。すべての人間的な感情を
まだ失ってしまったのでない限りは、労働者は
このようなことに抗議しなければならない。また
彼らがまさにこのようにしか抗議しないのは、彼らは
イングランド人であり、行動をもって抗議する実践的な
人間であって、ドイツの理論家のように、・・・・眠り
続ける、といったことはないからである。イングランド
人の現実的な抗議は効果がある。・・・・労働者間の
競争が妨害され、もはやブルジョアジーには搾取
されないと全労働者が決意すれば、それで所有の
帝国は終わりである。労働者がもはや売買されは
しないと決断するならば、・・・今日のすべての
経済学と賃金法則は終わりである。」
前は、デイヴィド・ヒューム「人性論」第三篇1740年
後はフリードリッヒ・エンゲルス「イギリスにおける
労働者階級の状態」労働者運動1845年
の一文であるが・・・・。江戸時代のわれわれの祖先も
なかなかの論を張っていたと思うと、現下の新聞、
テレビのニュース解説は、1苦84のような・・・・
平安貴族の政治がどうだったのか、道長なんて・・・
だろうか。貴族なんて・・・だろうか。
江戸時代の幕府政治、幕藩体制がどうだったのか、
封建制だから・・・・、身分制だから・・・・、現代
政治の民主政治に比べればとてもひどいものだったのか。
ひどいとか虐げたと非難するだけなのか。
そのような意味しかないのか、どうも疑問に思う。
ヒュームやスミスが共感や良心を言って社会性を
基準にした発想が妥当なように思うのだが。
風刺が流行ったのはいつごろなのか。
いつでも流行ったのではないかと考えるが、
サイエンスとして研究はどう答えるのだろう。
何度も書いて食傷気味ではあろうが、
漫才や落語、漫談や声色・生態模写など
時の権力をよく批判していた。批判の歴史を持っている。
やっかみもあるし、羨ましさも大いにある。
その裏返しの、冷やかし根性、揚げ足取りも
あるだろう。しかし新聞がラジオがこれらを
はなから押さえにかかったであろうか。それでは
新聞は売れなかった、ラジオは聞かれなかったのだ。
テレビも結構批判精神に富んでいた。「判決」
などというドラマはそれが災いしたほどと評された。
マスコミなる世界が生まれたのは産業革命以降だろうか。
噂話はいつでもあっただろう。
人は情報で生きる。聞き耳を立てるのは人ならばこそではないか。
新聞、TVが、それに甘んじてては、存在意義が無い。
水準が低すぎる。いや、マイナスではないか。
存在が悪となる。善となるべしだろう。せめて悪とならない
ようにすべきではないか。噂の尻を追っかけているだけでは、
善とは言えまいに。善と言い張っているなら、誰かが
引導を渡してやらねばならないのではないか。
辺見さんは「世間の声がマスコミ(とくにテレビ)報道と
相乗しつつ勢いをいやまし、・・・」と書いた。これこそが
今回の文章の骨だと主張なさるのかな?
朝日新聞は、何故今この文を掲載したのだろう。
辺見さんより、新聞社の魂胆に疑いの目を向けたい。
といっても、辺見さんの書きぶりには、光る美しさがない。
意見は異にしても、美しさは魅力として感じられる。
毒々しいあまり目立たぬ刺やざらつき、あるいは
粉や汁が相当に含まれているように感じるのだが。
そして結局人を信用しない、認めない、独り善がりを、
さりげなさに含まれる鋭さという言葉を誇って酔ってし
まって気付かない。
まあ本人はそんな生き方ができるというので良いが、
新聞社の方は間違っているだろう。ならば、辺見さんは
その間違いの方を指摘するべきだった。せめて
村上さんのようにできたのではないか。ほとんどの
不満は実は報道の水準にあるのではないか。それをしも
日本人の水準と言うなら私の方が間違ったのだ。
そんな辺見さんなら誰も読むまいにと。作家とは
何か、この点から問い直すべきだからだ。
同じ紙面に載った「私の視点」二本の投稿文も
投稿者本人への疑問より、掲載した新聞社の
胆を疑う。
岡本光雄 全国町村議会議長会議事調査部長の
「通年議会 議員活動と報酬考える契機」
民主主義とは何か、を考えれば、住民参加の機会を
広げる議会活動などという言葉を超える発想が今
求められているのではないか。住民の怒りを怒りとしない
仕掛けが作動していると解すべきだろうに。
作田学 NPO法人日本禁煙学会理事長の
「受動喫煙 価値観ではなく人権の問題」
先に投稿されたジャーナリスト斎藤貴男さんの
議論に反論を述べたもの。基本的なことが
欠けている、と命を守る基本的人権説を。
まあそうなのだが、タバコで死ぬと人権を
言うべきか。言うべきではあっても、それだけか。
世間が一色に染まると、
「考える個人はそれに恐れをなして口をつぐむかちじこまってしまう
のである。ときには凶悪事件被告人の弁護側まで、世間から
“公共敵”呼ばわりされたりもするのだから、まるで悪しき
社会主義なみである。世間は新世紀に入ってさえ、じつは
まったく社会化していないのである。
EUの死刑廃止宣言の趣旨を、加盟条件に死刑廃止が
入っていることを、欧州好きの日本人のどれだけが知って
いるのか。「死刑くらいこの国の日常と文化とそれらのすさみに
うまく融けこみ、よくなじんでいる国家的儀式はない。
死刑はだれかによって周到に政治的タイミングが選ばれ、
いわばひそかに“演出”されている。セケンはむしろ
知らされないことを望んでいるかのようだ。実相は
知らされずに、しかし、殺(や)って欲しいのだ。
セケンを背にした死刑という表現はかくも繊細であり、
陰影に富み、これを美とするか醜とするかべつにして、
あくまでもジャパネスクなのであり、私たちの心の
ありようにしんしんとつながっている。・・・・
今日もまた私はふうふういいながら犬のトイレを
掃除する。犬と目が合う。私はなごみ、同時に
ぞっとする。日常がこれでよいわけがない。そう自答する。」
こういう文を私は読みたくない。感情が害されるからではない。
どこか、筋が理屈に合わないと感ずるからだ。いや、理屈は
成り立っていないのではないが、文句も言うべきと思わないが、
どこか無臭を条件にしているとか、条件なるものを隠している
とか、何でも条件にしているとか、と感じさせる筋との
印象を持ってしまうのだ。結果と原因がひっくり返って
いるのではないかとあやしむのだ。
テニスでは、こんなテニスはこちらの力を萎えさせるものだ。
ずっとこちらの動きを眺めて、どこかつけこむ隙を
探している。自分の側のテニスはない。いや相手の
隙をすべて自分のポイントにするテニスだ。だから
倒すには想像以上のエネルギーが必要だが、そんなにしてまで
勝とうするほど意欲が湧かないのだ。
誠に残念なことですが、
昭和40年入学の橋長静江さんが
去る16日にお亡くなりになったとのことです。
詳しいことは分かりませんが、
私に連絡が入りました。お嬢さまが
発信されて間接的に回ってきました。
お尋ねは、同期の旧姓松井久美子さんに
連絡をとりたいとのことなのですが、
連絡先が分からないので教えてもらいたい
とのことだったのです。
どなたかご存知の方がおられましたら
お教え願いたいのですが。よろしくお願い致します。
電子メール、電話連絡、何でも結構です。
麻田まで、ご一報下さい。
最近になく風邪をひいて発熱して寝込んでいました。
数年ぶりでしょうか。足を痛めたり、腰を痛めたり、
その上発熱したりです。来週までコートへは出て行けません。
どうも申し訳ないことです。
この土日は京都大会ですね。夏に向けて
少しでも進展する姿を確かなものとするよう
正しい、そして粘り強いテニスをして下さい。
とくに何かを書くこともないのですが、どこか
気が滅入ってしまう、あるいはなぜとこだわってしまう
種になるので・・・・・
昨日の朝日新聞、朝刊15面オピニオンの頁です。
作家 辺見庸 さんの「寄稿」です。
題名は「犬と日常と絞首刑」です。見出しは2つあります。
「国家“演出”の儀式 この国に融けこみ 個人は口つぐむ」
「容量こえる悲しみ<なかったこと>に これでよいのか」
辺見さんは、死刑廃止論者だそうです。飼い犬の下の世話を
やいているときに、昼下がりのTVニュースに、その日の
午前中に三人の死刑が執行されたと報道されたのを、
背中越しに聞いた。犬の糞をつまんだ姿勢にショックを受けた。
恥辱か罪の影が胸裏をかすめた。そして死刑問題の大事な
ヒントを得た気がした。心底ぞっとした。
「死刑執行の報にたまゆら暗たんとするする人はいるだろうが、
しかし、ほどなく日常は完ぺきに復元することを、じつはだれも
がわきまえている。この問題を・・・・・・この国のみんなが暗黙
のうちに弁別している。そういったある種ジャパネスクなたちい
ふるまいこそ、私たちの日常に滑らかな階調と無意識の
すさみをもたらしているのではないか・ヒントとはそいったことであ
る。」
死刑がすでに法以前の自然の掟として存在していたらしい。
人類史上“普遍的”な行事だったのだ。いまさしあたり強引に
演繹できることが二つある。一つは、日本・中国・北朝鮮・イラン
などの死刑制度は、共同体のことわりに根ざした永きにわたる
人類史的知恵と根拠がある、という考え方。もう一つは、日本・
中国・北朝鮮・イランの死刑制度は、原始共同体と本質的には
大差ない野蛮性をあらわに残すもので、早急になんとしても
克服すべきであるとする思想である。
日本で死刑制度廃止は簡単では無い。しかし不思議なのは、
滑稽なほど欧州かぶれの日本人が、国内で凶悪事件が
起こる度に、非言語系の感情的閉域=世間に立てこもる、
あげく「犯人を極刑に!」の声が世間に響くことだ。
(ちょっと長くなりました。一旦休憩して)
ぎっくり腰になったことがないので、もう1つ
確信はないのですが、腰を支える筋肉あるいは
腱が寝違えた首のようにおかしくなって
腰をうまく使えなくなりました。ずいぶんくた
びれたという実感があったので、腰の調整を
しようと寝転がって腰のあたりの筋肉を
次々と動かしているとがくんがくんとかなりの衝撃を
伴なっておかしな動きをするではありませんか。
起き上がろうとすれど起きあがれず、力が入らない
もしくは痛みを伴なう激しく腱が引っ張るなど
壊れた機械のように動きがおかしくなってしまいました。
12日の夜のことです。困った13日は仕事が
臨時に入っている。どうなるのか?なんとか
ギクシャクした動きですが自由にならぬわが身を
苦労して運んで仕事を済ませました。帰って
風呂に入るとずいぶんと楽になりました。14日
今日ですね、朝起きるとかなり状態はよくなっています。
ギクシャクした動きは直りました。滑らかになりました。
かわりに姿勢がおかしい。腰が曲がったまま、かと思うと
突っ立ったままになります。座っていて立ち上がろう
とするとうまく行きません。力が入らなかったり痛み
が走ったりします。でも堪え切れない痛みではないので
決心さえつけば立ちあがれます。でもできるだけ
楽に立ち上がりたい。でしばし格闘します。背中一体
背骨の周囲の筋肉や腱の調整をする必要が
感じられます。かなり内部の筋肉の不調が
外の部分に代わったので、少しの痛みに耐えれば
時間が痛みをとってくれるのではないかという
見通しを立てています。歳をとるとこういう現象も
経験するものかといまさらに感心しています。
未経験のことというものが、当然ですが、かならず
起こるものです。よきかな人生、面白きかな人生、
・・・・・・と酒を飲みたいところですが、これも控えて
(させられて)いますので、うーむ・・・・・・
このところヒュームの「人性論」が面白いですね。
ロック、ヒューム、スミスの経験論に面白さを感じています。
ルターの書いたものを読むと隔絶した世界を見る思いです。
ずいぶんと変化のある事象が矢継ぎ早に起こっているように、
意識して眺めるためだろうか、意識を刺激されるためだろうか、
いろいろと考えさせられるように思う。
昨日家内と散歩に出ると、自宅のすぐ近くに縄張りが目立つことなく
してあって警官が2、3人交通整理と何やら事故の現場測量を
していた。大きな破片などは見当たらなかったが、ちょっと
多めの濃い血の痕があった。警官に何か事故でもありましたか
とたずねるとうなずく。大きな事故でしたかと重ねて聞くと、
分からないと言葉を濁した。今日の朝刊には事故の記事が
載っていた。娘の小学校での同級生の母親が交通事故で
死亡したと。家内はショックを受け、私は救急車のサイレンなど
聞かなかったが・・・と少しばかり不審に感じた。事故に遭った
女性は60才弱のいわゆる各戸に配布物を届けるポスティング
の仕事を請け負って自転車で走っており、撥ねた小型バスは病院
利用者の送迎のためのもので運転手は年配者であった。
鳩山総務大臣は国民の声を代弁していると再任を認めぬ方針だが、
日本郵政の西川社長は続投を株主総会に提案すると
財界や構造改革路線の継承を謳う政治家連の応援に
力を得ているらしい。最大株主は与謝野大大大臣で、
最終決定権力者は麻生総理大臣だという。このところの
鳩山総務大臣の国民派の主張は、入試問題の答えなら
問題とはならないだろうが、政治家の姿勢という観点からは
多くの人が疑問を感じるものであろう。
政治の目的、政策の方向などが存在して始めて生きた政治家の
政治として論じることができる。権力者として政治の実権を
握るだけなら、勢力争いだけが関心の的で政治的不安定
は国民の不幸でしかない。
政治家だけには任せておけないが、言論・報道が政治に
無力では幸福を目指す市民活動は負担が大きすぎよう。
新聞、TVの、なかでも朝日と読売の企業精神は批判の
仕様が無くなっているのではないか。そこへNHKの
「公共放送」への意欲が失われた問題がある。
新聞の販売拡大競争、TVの視聴者迎合番組氾濫、
NHKの視聴料運営だから公共放送の逆転論理は
市民否定の統治法になっている。
それに・・・・・なんだかたいへんな数です
午前中は、あやしい天気のように見えましたが、
昼からはかなり暑く夏の晴れた天気のようになりました。
午前中は杉山部長が自身の練習も兼ねてコートに出て
来られました。午後からは、久しぶりに中道さんが、
藤原さん、小林君とともに出て来てくれました。自宅が
自転車で一走りの距離にあるとかで、ひとえに仕事の
忙しさが原因で顔を出せなかったようです。元気な顔を見て
たいへん嬉しく思いました。早速現役と一緒に練習に
加わりました。一番元気な声を出し、気迫のこもった声を
出すのが彼でした。現役学生達の方が声が出ません。
声を出せと私は思わず怒鳴っていました。わーわー
騒ぐのが目的ではありません。気迫を込めて、スポーツ
のテニスをするための声ですから、聞いて気迫が
伝われば、声が出ているのです。この感じが出せないのですね、
学生たちは。中道さんは、それが身についているのですね。
宮田さんも、林君、藤田君、そうそう中村さんも出て来てくれました。
総勢では20人を超えました。こうなると迫力があります。
コートが生き生きしてきます。
私は、すこし所用があったので3時に消えました。
それにしてもちょっと暑かったですね。バスの中では
眠たかった。冷房がよく効いていました。夏ですね。
西日本大会には参加しませんので、夏の目標は
全日本大会です。これに向けて練習をします。
正しいテニスをするように課題を設定しました。
個人戦も含め1回戦は全力をあげて全勝します。
勝てばよいのではありません。勝てなくてはならないほど、
間違いのないテニスをします。そのためには
基本のプレーをごまかしなく修得します。
どんな情況下におかれても、ミスをしないで、
一定水準のプレーを自身を持って行います。
試合は理論的に行います。原理に基づいた
テニスらしいボールコントロールで戦います。
見て納得の行く自然な気迫のこもったプレー
で戦います。試合の流れ・波もリズミカルにします。
盛り上がりのある、見ていて魅力のあるマッチを
実現します。(なんか・・・選挙演説見たいに
なってませんか・・・・・自由・友愛・民主・活力・生活者)
女子は、奈良女子大・京都女子大と合同練習を
東コートで行いました。もっとボールを身体にひきつけ、
身体が流れないようにしっかり両足で踏ん張って、
ラケットの面をしっかりボール軌道に入れて一球
一球気迫を込めて丁寧にプレーすることを覚える
ように演習してほしいと、短い時間でしたが、思いました。
と、いつもにも増して叱られてしまいました。
そうですね、あまり話しを急いでしまうと何の話しか
分からなくなります。順番に話して行きましょう。
まず、お天気です。ずいぶんとよいお天気でした。
絶好のテニス日和です。相手もそうですが、こちらも
乗って行けそうでした。
神戸には負けました。元気のよい神戸らしいテニスでした。
立命には3−④、同志社には2−⑤でした。
全体的に京大がもっとも声が出ないテニスです。
特にプレーの一つ一つに声が出ません。波に乗って
テニスをする勢いが作れないからでしょうか。
一生懸命テニスをしているのですが、予想が
不足している、計画がない、意図がない、という
ことになるのでしょうか。
うまくポイントをとっても、あるいはうまく相手に
ミスをさせても、それではもう一度とはたたみ掛けない。
簡単なミスを、ダブルホルト、レシーヴミス、ストロークミス、
をしてしまいます。何を考えているのか?
見ているこちらには、まったく不明です。
こんな流れの中で、いきなり遠くのシュートへの
ポーチヴォレー、むろん届きません、いえ、届きます、
すごいなー、しかしミスです。
こんな流れでも、ボールカウントは2:2には結構なります。
ゲームカウントも結構競る場面もあります。相手も若手は
緊張しますからね。
ま、仕方がないか、いや山元さんや二宮さんは
厳しいです。監督の責任やな。
西日本大会、7月始めに岡山であります。が京大は
参加しません。授業を欠席できないからです。土曜日曜
が挟まれないので無理のようです。日程を決めるに際し
学生たちはどの程度考えるのでしょうか。参加が厳しくなる
状況の調査意見聴取などは当然ですが、当然とすべき
意見を強く出す必要もあります。学生の自治能力が
不足しているのならスポーツをする能力も限られている
と見るべきです。たしかに監督不行き届きです・・・・。
不安定な天気ですね。楽しみな土曜日の試合は
何とかできるでしょう。なんとかやりたいものですね。
リーグとはまた違ったテニスの面白さが味わえますよ。
テニスは面白い、スポーツは面白い、勝つことは
何より面白い。そしてとにかく楽しい。やるだけ
やり尽くすことの愉快さ・楽しさ・面白さを知ってしまうとね。
それでもやり尽くすには、まだまだ意欲が足りません。
どこか遠慮気味です。まさかと思っているところがある、
これが私の感じるところです。もっとリアルに自分の
プレーを見てはどうですか。どこかボールが遠い、
見えているのでしょうが、自分の手の中にあるとは
考えていない、門が在り扉越しにしか見ていない、
こんな風に見えますね。しっかり自分のボールとして
思うように扱うつもりにならないと面白くないのです。
これを・ここへ・このように、あれを・あそこに・このように、
こんどは・あれを・あのように、つぎは・これを・あのように、
・・・・・・相手も同じですから、交互にこのようなことの
繰り返しです。実に面白い、飽きませんね、いま
でも続けたい、そして自由に切りたい・終わりたい、
でもそうは行かない、この切れなさ・切らない心、
これを理解することの豊かさを知れば、テニスの理解は
ずいぶん進んでいるのです。
いつ切れるか、切ってはいけないのはどのようなときか、
これをしっかり把握してもらいたいのですが。これが
ずいぶん水準が低い。すぐに切ろうとする。切れない
のを切ろうとする。確かに切れるが、正確には、
相手に切られてしまった、のだ。それをまた念の
入ったことには、自分がミスをしたと簡単に自分の
責任とする。とれない責任をとって、したり顔。
これでは、つける薬は無い、張るべき膏薬もない。
倍の注意、倍の仕事、倍の苦労を覚悟して
楽しんで欲しい。ちょうどよい戦い方なんて
10年は早いと修行に精を出すべきですね。
よいお天気でした。ますます元気で土曜日に
備えて欲しいと思いました。楽しい、思いきりテニスのできる
機会なのですから。躊躇も何も、これはどうだとばかりに
思いつく限りのテニスを試みるとよいのです。
技術は必要です。技術もなくて戦いようもありません。
それでも、技術の前に戦いの心がなくてはならない
はずです。練習をつんで戦いに出る。なるほど、
なるほど、その通りです。で、その戦いは、どのような
ものなのですか、どうやって知ったのですか。生まれつき、
本能で、もとから知っている・・・・・・。ならいいですね。
どんなものか、本気でやってみなくては分かるはず
がないのではないと思います・・・・・、私は。
誰かが親切に教えてくれるとよいのですが。親切な
大人は結構周りにいるものですがね・・・・・・・。
私自身は、教えてもらったと思いますが、教えてもらった
はずのことほど、どうも違っていた、との思いが強か
ったような印象があります・・・・・、いえ、定かでは
ありません。結局かなり分かった後から、あーそう
だったかな、そう言えばそうかも分からないが・・・・、
というような感じですね。決して分かりがよい方では
ありませんので、参考にはなりませんが。
分かるときが来たら分かる、分からない間は、
教えられたって分からない。教えて分かるなら、
すごいことだが、よほど優れた人同士でないと
話しのようにはいかないのではないか・・・・。
別に悲観的に考えているのではありません。
どちらかといえば、楽観的に考えています。
でも、先に教えてもらえれば、準備ができる、
とは言うものの、それほど簡単には準備ができる
わけでもない。もしうまく行った例があるなら、
なにかその理由は別にあるように思います。
ただ、ちょっと違う角度からですが、考えられる
要素があるように思います。一般的な「作法」
のようなものを心得ておくと戦いの場である種の
落ち着きを得られるのではないか、と思うのです。
剣道の素振り・・鋭さをある水準で獲得する
柔道の受け身・・・相当な投げられ方を経験しておく
丁寧な挨拶、美しい所作、穏やかな表情、
涼やかな目元、落ち着いた澄んだ声、
裂ぱくの発声(オー、ヤー、ターなど)、
それに
華道・・・・・挟みの使い方、頑丈な枝など、相当な
力が必要な切断を乱れず行うこと
茶道・・・・・熱湯の扱いに安心感が漂う所作、
茶をたてることは必要条件、もてなす心こそ
が肝要
それでは、われわれのテニスでは、どのように試合に
プレーするのか。全力をあげて、適切に球に向かう。
経験の多寡にはとらわれない誠実な心とその現れ
としてのプレー。そのための制御法の修得意欲。
さきにあまり明確でないごたごたと続く話しを書いてしまいました。
テニスの話しですが、だからテニスについてですが、
ただこのぐたぐた感を持ちこみたいがための、
無駄口をたたいてしまいました。
幻を信じるくらいなら、苦労は覚悟の上で、
手作りで一歩一歩進んでもらいたい、高速道を
高級車で一走りとはいきません。
道を作り作りで進むのですから、前進なんて
それこそどれほどあるか。でもあればその前進は確実です。
事故を起こしてもきっと前進するでしょう。
何があっても進むでしょう。このがむしゃらが
良いではないですか。
こんな感じですね、だから、先だっての試合はもっと
がむしゃらでよかったと思うのです。ちょっと大人しかった。
ずいぶん目一杯に頑張ったのですが、どこか
遠慮がありました。恰好つけがありました。もっと勝ちたい、
勝つぞの意思をプレーのがむしゃらさで表しても
よかったのではないですか。
とくにミスを怖れたかのようなプレーぶりは
もったいないと思いましたね。何かを狙って
ミスをしたというのは、当然のことですね。恥じること
ではないでしょう。ミスをするはずがない、とは
思えないはずですが。ミスを怖れてはテニスになりません。
これはここでも何度も書いています。そして、ミスをするようでは
テニスにならないとも常に言っています。つまり
2つの矛盾したことを私は主張しているのです。
ミスを怖れず、そしてミスをしない。
もっと進むと、ミスをしない、そしてミスを
してしまった、いやさせられた、でもないな、
ミスをしてしまったやな、やっぱり。こんな感じか。
だいたいが、ミスかどうかが、そもそもだいぶ
考えないと・・・・・・、ペアで話し合っても、
ミスやない、いややっぱりミスやろ、相手が
うまかったのや、そんなことない、・・・・・・
何を狙っていたのか。どう言う状況やったのか、
相手はどうやったか、(これを書きながら、TVをつけている。
ダルビッシュ投手がWBCの話しをしている。「だいぶ
僕は頭がよくなったですね」と話している、うん、これですね)
試合を戦っている、本当に戦っている、と
ミスはしません、そしてミスをたくさんしてしまいます。
自分も相手も。偶然が必然をうわまわります。
今日は関西六大学対抗戦、対関大戦と対関学戦を
観戦しました。関大には0−⑦、関学には2−⑤という
結果でした。ちょっと勿体無い試合ぶりでした。
もう少し戦闘モードで試合ができれば力を出せたと
思いますから。単純なテニスですから、ミスをした時に
倍にしてお返しをする気持ちを持たないと戦えません。
もう少し内容があってメンタルな要素も現れるようなら
偶然の及ぼす場面も期待できますが、人為的な
狙いの単純な結果テニスの場合には、激しい
勝負の展開にスタミナが切れるようでは遅れをとるでしょうね。
相手の狙いを察知したら、丁寧にきちんと全力で、
必死になって対抗するだけです。狙いを封鎖すれば
すぐに対等が実現します。つまり相手は引いてしまうのです。
事実そのような展開になった試合が幾つかありました。
テニスのゲームを、マッチを楽しむことに徹して
戦えばよいのです。だんだん調子を出すという
あまりにゆっくりムードでちょと独善的に、というより
お人好しムードでとりかかる、というかまたは、
遠慮が先行して先手先手にしかけさせてしまう
という対決の仕方では、相手十分に始まることに
なります。そんなにハンデを提供しなくてもよいはずですね。
以上ちょっと説明したような点を改善して
自分のテニスを持って対決してみてください。
楽しんでください。さあ腕をぶしてください。
良い感じで試合に入りましょう。相手の狙いを封鎖しましょう。
こちらが厳しくすれば、相手も厳しく出てきます。
これがしびれます。だから対決です。もっと厳しく出ましょう。
相手の予想を上回るのです。相手の狙いを封鎖するのです。
ここから始めるのです。
楽しいテニス、思うように強くならない。現状分析。
現状批判。不満。自分への不満。怒り。どこへ持って行けば
晴れるのか、よく分からない。根気のない、落ち着きのない、
考えの足らない、結局は情操が不足、教養が不足、
文化が不足。そう見られるのがまたしゃくの種。虚栄。
見栄。格好つけ。でもその方がよりまし。始めから
そんなん放棄、ではあまりにええ恰好しい、ちがうだろうか。
といっても、商売に煽られるような、恰好つけはなあ。
だからここは楽観と理論、骨太の方針ではないが、
理論的な見通しがあれば、自分のやり方で、自分の
歩幅で地に足つけて進むことができると思うことができ
るのではないか。
そんなに安心できる、いや信頼できる理論があるだろうか。
・・・・・・
・・・・・・
そうですね、まあそうです。そうですから、そう言って
しまってはね、ちょっと違うのではないか、と思う
のです。信頼できるか?と聞いてしまっては
どうなんですかね・・・・・。ここ等が年寄りのずるいところ
でしょうね。懐疑なのか、懐疑論なのか。懐疑は
誰にもありますし、誰にも起こります。懐疑論は
そうではないでしょう。
懐疑は、どうですかね、懐疑=質問、詰問でしょうか。
かなりの沈黙があるのではないでしょうか。
心の動き。よく動きますよね。この動きをどのように
考えるのでしょうか。こんなこと互いに聞くこともあり
ませんね。普通は。聞く相手はかなり限られてくる
のではないでしょうか。結構子供の世界は狭い。
広いようで狭い。大人の世界は広い。人の世界は
たいへん広い。狭いこともごくごく普通。だから
意外と広いこともあるというべきかも知れません。
どうもよく分かりません。勉強が足らないせいです。
懐疑論はあかん、とカントは反応したのでしょうか。
懐疑は当然とヒュームは深めたのでしょうか。
世間は勢力を持つやつがのさばるぞと警戒したのが
アダム・スミスでしょうか。
よく分かりませんが、なんとかかんとかぐたぐた
考えるという、このぐたぐたに、惹かれてしまうのです。
なにかその前に存在があるべきと、なにか不足を
感じないだろうか。いえ、経験から来る発想ですが。
論理的な思いつきではない。経験上からくる勘です。
そんな冷静とか落ち着きとか計算とか観察とか
の前に目一杯のせっぱ詰まったどうにかしたい感
を持つ経験をした時の話しがあるのではないか、
そんな感じのことですが。要するに力を目一杯に
出している、力みかえっている、フルもフル、あまりに
フルで、ぶるぶる震えているぐらい。普通は
無我夢中、記憶がない、外から見ると馬鹿みたい
状態、でも何度かやっていると意外と記憶を残せる
精神がある事に気付いたという経験。そこから来る
発想に、こうすればどうなのか、なんかできるのではないか、
という切れ味の予想がある。これが冷静という経験。
そうかこれか、これを使えということか。力みも消えて
やるべきに特段の思い入れもなく、ただただ
しっかり取り組むことができる。取り組んでしまっている。
しまった。未来、現在、過去を当然覚えている。
もう何が何だか、論理的な散文でない。こころもち
を素描しているだけ。形だけでなく、ちょっとでも
色付けできればまだしもなんですが、そこまでの
筆力がない。
中級プレーヤーに向けてどのように進んで行くか。
基礎を固める必要がなくなったわけではない。そして
もっとも大事なことは、基本練習を本当に基本として
水準を保つ練習をすることです。ここの部分が
実現できるかどうか。いえ、まず言葉で表現できるかどうか。
意思を交換できるかどうか。コート上で意思疎通できるかどうか。
そのうえで、各人の工夫を見抜けるかどうか。互いに
評価できるかどうか。認め合うことができるかどうか。
性格も含め、人となりも含め、評価をすることができれば、
それをどれだけ暖かく伝えることができるか。
できればウイットとユーモアも十分交えて伝えることが
できれば、ずいぶんテニスらしい、と思うのです。
競争をもっと激しく、時に人格をかけて競うことにも
なるやも知れません。周囲にはしんどいことですが、
後後に残ると言う意味では、重たい存在ではないでしょうか。
そんな人がいたのだ、という記憶は、悪いものではない
と思うのですが。そんなやり方ですか、とテニスのやり方
を問われたい、と思っています。
で、つぎに考えること。何故人は「あしき(悪業)」を
なしてはいけないか、その理由として4つが
上げられる。もっとも、これは釈迦の教えですが。
むさぼり(貪欲)・・・・日本中の、世界中の○○○
を手に入れてやろう。
いかり(瞋恚)・・・・・日本を、世界を、地球をぶっ潰して。
おろかさ(愚痴)・・・・・自分は天才だ、誰も分からない。
おそれ(恐怖)・・・・おそれていることを見せたら負け。
あしきをなさねば競争に負ける。負けたら終わり。
競争となると、どこか理由がなくなる。問わなくなる。
一目散、目を瞑る。だから競争するには
この4つは不可欠の要素ではないか、と。となると
さすがお釈迦さま、よくお見通しだと感心もする。
ではあるが、競争に勝とうとするものの自然な心、という
ならば、これは考えねばならない。
むさぼりが相手にある。そこを突く。とれるだけとる、
と来るはず、を利用する。2度あることは3度あるか。
いかりは怖い。へたに怒らせないに限る。でも自分は
どうか、怒りに狂って冷静さを失う。これはまずいのが普通。
でも強敵になら、怒りこそ最大の武器になる。普段の倍の
力が出るのだったら、何かに怒ろう。しかし、暴力はいかん。
不当な怒りはだめだ。自分の弱さはどうか、怒りの対象に
なるかもしれない。
おろかさは言うまでもない。ならば、格好つけは棄ててし
しまうのがよい。裸になるつもり。全力を出し切る。
おそれが最後に残る。相手の恐れと自分の恐れ。
不都合の大半はおそれが原因。現実から離れ、
予想がおそれにすりかわる。自分に未だ起こって
いないことには勇気を持ちしっかり相手を観察しよう。
そして相手がおそれから過剰に振れている
気分を揺さぶるプレーを狙う。強気と見えるプレーは
おそれからくる早く決めたいの焦りではないか。
自信があれば、焦りはすまい。冷静は勇気の恋人。
根拠もなしに、力を入れては単なる力み。
これでは自分からすってんころりと転ぶだろう。
といって冷静こそが唯一の勘所、とばかりは言えない。