後手を踏んでは苦労しますね。
先手をとることが戦いの要領です。
そのとり方ですが、仕掛けに終わって
相手に乗じられては、先手をとったとは
ならぬでしょう。相手から言わせれば、
乗じる隙を作らせたことになるからです。
焦ってはだめですね。
根気良く、きちんと考えを詰めて
行くことですね。工夫です。
わざの工夫です。
攻めさせられては、先手にはなりません。
攻めさせたと言っても、後手を引いているようでは、
単純な負けですね。
そういうことが多いのですね。
根気が必要です。
焦ってはだめです。
基本を守って工夫します。
そういう練習をするのです・・・・・・・・。
日曜日は天気が崩れるようです。
気持ちを保つのに苦労します。
これにも根気が必要です。
粘りが必要です。不動心と言っても良いでしょうが、
このような言葉を今まで使ったことは無かったと思います。
精神力を強くするという表現もあります。
この言葉も今まで使用していません。
テニスの技術面でもっともっと修得するべき課題が
多いからです。基本に忠実なプレーを
心がけることが前提になると、なおさら
技術面での向上が心理面に及ぶと考えています。
一球の処理に心を込めてしっかりプレーすること
に集中すること。理論的な見通し、予定、目的、
実行が必ず必要なのですね。知識と考えが、理性が
大きな意味を持つことになるのですね。
頭で分かって、身体が上手く動かないと言うとき、
精神力が顔を出しますが、目標達成の意思が強ければ、
練習のやり方を工夫して必ず上手くできるようになる、
と考えるのが合理的でしょうから、精神力だけに
意識を集中させるのは、どこか偏りが過ぎると
思います。相手のある競技ですから、特に冷静さや
観察力を失うようなやり方は理屈に合いません。
雨が降ろうが、天気が悪かろうが、
テニスをしっかり練習して、仕上げをできるだけ
高度な段階に押し上げることに気を入れてください。
テニスに集中できますように。
お天気が回復した。風は冷たいが。
夕方少しだけコートを覗きに出掛けました。
朝からあちらこちらと忙しく動いて
最後に吉田です。1時間しか覗けませんでした。
東山通りから耳をすましたのですが、
聞こえてくるのは??女子の声!です。
どうしたのかな?といぶかしんで門を入ると、
男子は東端で前衛練習の最中でした。
部員が半分。にしては、熱がこもっていました。
女子は6名。元気が良かった。
新入生が体験入部。活動的な学生でした。
大学と大学生の生活に、いろいろ希望を膨らましている
ようです。良いですね。頑張って欲しいですね。
環境に合わすことはたいへん大事なことですが、
自分を育てることは、依頼することではありませんから、
環境と会話する、やりとりする、という行動が
とれるのかどうかを考えることが大切ですね。人との出会いが
大きな要素を占めるでしょう。でもそれは後から判ることですね。
やってみなくては判らないことの方が限りなく多いのです。
力の限りやってみて結果を見るしかないでしょう。
真剣に取り組めば、どのような結果になっても、後悔は
少ないというしかありませんね。でも後悔は後悔です。
無いわけはありません。・・・・・・
リーグへの準備。どこまでしあがるのか。
一人一人違います。微妙なところです。よく分析し
根気良く調べ上げるしかありません。いい加減な
判定では後で悔しく思うでしょうし、あまりにこだわると
調整が終わらないでしょう。見切り発射もやむなしです。
不安を抱えて挑むしかありません。自信を持つという
ことは、たいへん難しいことです。
いや、自信というのは、そのような中で掴み取るもの
かも知れません・・・・・・・・。不安と焦りの中から、
執念を燃やして、何かを掴み取るような、といって
他に依頼することでは無いのですね、飽くまで自身の
全力全真全霊の尽し切る過程の中で、目標に到達する
こころ、こころがけ、行動、自分、存在、でしょう・・・
プレーは、気迫、意思はむろんです、そのうえに
きちんとした理屈、しっかりした判断、狙いと結果の
比較、を、強い意思で、希望を持ったこころで、
練習します・・・・・。決して悪態をついてはならないのです。
基本、基礎、テニス。只管打打。挙体全身。
ちょっと忙しい。
市議会選挙に少しだけ関わっているせいでもないのだが、
心がせわしいのだろうか。
長崎市長銃撃事件のような問題のせいか。
正確で精密なテニスが進んでいるのかどうか。
気になるのだが、なかなか確かめに
行けないのが苦しい。
ラケットをどこまでしっかり振り切っているか。
結果としての打球にどこまで
精度を求めているか。実現出来ているか。
根気良く細かなことまで詰めているか。
テニスのスケールをしっかり意識しているか。
身体の使い方を研究しているか。
腰、膝、歩幅、ひねり、呼び込み、押さえ、
そして追い振り(こんな言葉は?あったっけ?)、
とテニスらしくする基本的な技術を身につけているか。
水準を飛躍させるために執念を燃やして
練習しているか。
昨年の挑戦の屈辱的な失敗を克服する
具体的な手段方法を身に付けたか。
コートを広く使い、動き回って、
緩急の時間を上手く使う攻守の高度な
技術を少しでも開発したか。
先ずは高さの利用。
サイドのコントロール。
立体的なポジショニング。
押し引きの柔軟性。
緩急の時間コントロール。
フォームにはめる制球、でも
基礎の上に立った柔軟な制球。
攻めるためのゆるやかな目立たない守り。
エネルギーを浪費する熱への変換を
極力避ける筋肉の使い方。
動から静へ、静から動への
鮮やかなプレーぶり。
飽くまで基本に忠実な、
着実な隙のないラリー。
ダブルスらしいペアワーク。
耐えるところ、待つところ、
相手に打たせるところを
しっかり作って闘うのだ。
激しいけれど、顔や声は、態度はあくまで
穏やかで美しいとしなくては・・・・。
精神力が相当必要だから、結構修養となる・・・。
最後はやっぱり、楽しさだろう。
控えめで良いが、たのしさはしっかり感じて
きらきら光れ。
電話で叩き起こされて、
近くにすむ母の下へ駆け参じることから
始まった1日。幸い特別のことはなく、
連れ合いが泊まって念のために
見守ることとなった。一息ついて
いるとアメリカでの銃撃事件の報道があった。
学校を舞台にする銃撃事件が後を絶たない
のには何か理由があるのやないのやまったく
不明ですが。
眠たくて夕方一眠りしました。
タイガースは、どうもまだまだ
戦力が整わない様子ですね。熱を入れて
TV中継を見る気も起きない。
そんなところへ長崎市長銃撃の報がテロップで流れました。
本島等長崎市長が襲われた事件を直ぐに思い浮かべました。
でも理由が分かりません。
団体の長は、責任を問われるのです。
というと、一般論なってしまいます。
反感を買うと、目をつけられると言うべきです。
そのような行為が行われてしまう。
これを利用するのが「テロ」ではないのかと
私は思っています。
恐怖を社会に植え付けて、社会不安を掻き立て、
さらには政治目的につなげて行く、・・・・・。
政治団体、宗教団体、・・・団、・・・・、と
勢力団体は存在しています。法治国家では、団体・結社の自由が
法の下に認められています。しかし、同時に法を守ることが
前提です。その順法には、団体が個人に優先する権利は
認められているのでしょうか。個人と団体は対等では
ないのでしょうか。勢力があるから、権力があるとは
ならないと思います。共和制と民主制の違いに敏感でしょうか。
民主制は実はたいへん判り難いのでは無いでしょうか。
私には、政治学があまりに未熟なように感じています。
市長選では、市長であっても候補である限り
危険に身をさらす確率は高まるでしょう。
首相のみならず、どんな団体の長も、身辺警護の
専門家を何人も周りに置かねばならないのでしょう。
言論を暴力で封じるだけでなく、暴力による
恐怖を第一に行動する人に対する無力に対して、
愛を守る暴力を認めてしまう社会の出現があるのでしょうか。
個の存在と、存在の平等もしくは持続可能な(ちょっと
無理筋の使用法ですが)平等感に対して、あまりに
無策鈍感な社会の在り方に、反社会的行動をとる人が
出て来るのかも知れない・・・・・。
問答無用。力在るのみ。・・・・「実力勝負」???
「自己責任」
文化を無視していると思う。だから「美しい」を・・・・
楽しみは、時間をかけて、味わうものだろう。
楽しみの中には、苦労に耐える分も含まれている。
苦労なく、簡単に目標を達してしまうより、
苦しんで苦しんで、目標に到達する方が
喜びも倍加するというものだ。としておこう。
ボールをどこまでもコントロールしてやろう。
一気に状況を打開するという
先行きの見通しの立たないやり方ではなく、
少しずつ少しずつ確実な安定した状況への
道を探って行こう。
後衛は打球で、前衛はポジションワークで。
心を通わせて、ペア機能を十分なものとしよう。
重心の置き方、移動の仕方、腰の据え方、
ラケット操作に奥行きの深さを持たそう。
ボールの処理に懐の深さを用意しよう。
形の良さを、単純に一瞬の像に求めては、
あまりに単純過ぎる。
読みを深めよう。
相手の心。打球の予測。処理の選択肢の豊富さ。
動きを止めず、処理の豊富さを確保しよう。
身体全体を使うことを忘れない。時間を上手く使う。
速くプレーすることも当然のこと。が、瞬間プレーだけでは
奥行きがない。単純過ぎる。
形の良さだけに基準を設けては、あまりに窮屈だ。
美しさは、欠ければ結果は望めない。がしかし、
あまりに美しさがないのも、確固とした存在となるときも有る。
判断が揺るぎないものであれば、決断がきっぱりしておれば、
実行は見事さを浮き彫りとして、底光りすることも有る。
過酷な身体の使い方、筋肉への大きな負担を強いてしまうときも
あろうが、そんなことへも挑戦のときがやって来ている。
チャンスが与えられるのだ。正確さや執念をプレーに表せるのだ。
そのようなプレーに勝敗をかけることさえやってしまう。
なんと真剣にプレーしているのだろうか。
誇りの高さに畏敬の念を感じることも有る。
誇りを高く掲げても良い。誇りに輝く瞳を見せても良いのだ。
一本のラリーをどこまでもコントロールし続ける
技術力と精神力を持つために練習を重ねて行くのだ。
意思と思いだけではできないことをよく理解している。
何よりも、テニスをよく知り、分析力と知識と
総合力が必要なのだ。つまりは、基礎だ。基本こそだ。
水準の高い基礎と基本に従うのだ。
安藤、井上、逢見のロブはまだまだロブではない。
小柳はタイミングがあまりに勝ちすぎている。先ずは
もっとコートを広く使うことを考えるのだ。サイドライン、
コーナー、高さにコントロールの精度を高めるべきだ。
しっかり抱えて(腰を安定させ、窮屈になっても、
胸の近くに打点を作って、鋭い振り、大きな振りで
正確にねらい通りに打つことができるように練習する。
仕上げてしまうのだ。)自在に打つべしだ。
貴田、辻田、富岡、赤木、梅原は、後衛の力が
すべて出るように、細心の注意を払ってコート上の
動きを理解することだ。風林火山は前衛にこそと思えるが。
天気が崩れれば、頭のテニスを鍛えておく。
身体を休めても、頭は鍛える。
練習する。(むろん、疲れたら休めば良いが)
気合い十分に動き回り、打ち回すことが
必要だが、正確さとか、狙いの合理性とか、
判断の現実性など、これら諸点に注意する
観点をもって練習できているかどうか。
自分のチェックだけでなく、互いにチェックし合う
能力も身に付けて欲しい。
ラケットの操作を、腕だけ、手だけで
行う観察の要領を超えて、身体全体、身体の動きを
も含めたプレーとして合理性、可能性を
考えるように意欲を燃やして欲しい。
運動における、速さ、時間の観点は、複雑で
考えにくいときもあるが、簡単に諦めるようでは
プレーの研究が深まらない。
上手いプレーヤーを参考に研究すれば、必ず
突破口は見つかるものと、根気良く取り組んで欲しい。
思い込みや、上級の知識だからと、安易な判断では
折角の可能性が見つからないことも多いのだ。
思わぬところにヒントは見つかることも有るものと
研究心の幅を狭めないよう心掛けて欲しい。
地方統一選挙後半戦。
合併後初の市議会議員選挙運動初日とて、
応援する若手候補の出陣式に朝は出掛けた。
午後からは、定例の読書会。政治の話しが
テーマである。といってもプラトンの国家だが。
政治における正不正、善悪、正義不正義、知無知。
なかなか力は出て来ない。
現実は力の有無。となると議論はできない。
論理は力を排除する。
寄らば大樹の下。長いものには巻かれろ。
論理は、屁理屈となるか。
責任は、論理か、力か、どちらに負わせれば良いのだろう。
君主制、共和制、民主制の比較なんて、そうそう簡単には
できないのかもしれない。損得勘定でできるものなのかどうか。
民主独裁制なんてのも・・・・・
直前練習に入っているのですが、
進捗状況はどうでしょうか。
たいへん厳しい評価をしてしまいますが、
基本と基礎をしっかり踏まえたうえで、
テニスらしいプレーをしましょうといっているので、
仕方がないものと、了解して下さい。
技術的にはずいぶん遜色を感じる点は少ないのですが、
団体戦に勝つ事ができるかという事になると、
勝つための要素がほとんどないのです。全敗しても
不思議ではないし、優勝できなくても
当然です。それほど勝つ要素に欠けているのです。
この点は他に言い様がないので、そのまま
現役たちに伝えてしまいました。
彼らの自信ほどはどうでしょう。
なにを言われようと、自信や過信があれば、
なんとか頑張って戦うものですが、自信が持てないと
なんともさびしい戦い方になってしまうものです。
この自信が、まだ形を現す段階に達していません。
したがって、この10日ほどで勝つ要素と自信を
持てるように練習を本格化するしか前途を明るくする方法が
有りません。
テニスをどこまで分析的に考えてきたか、
テニスをどのようなものと総合的に
把握してきたか、に戻って、自分の力を
ありったけ出し尽くすように意志を強く持ち
意欲を湧かす以外にとるべき道はないでしょう。
初心に戻れば、好きなテニスとして始めたのです。
燃える意欲が湧いてくるでしょう。
新歓コンパで新入生に心から歓迎の意を
伝えることができるようにするためにも
ここは一つ頑張りがいのあるところと心得て
力の限りを尽くして欲しいと思います。
すっかりご無沙汰になっていたコートへ
出掛けました。
二宮さんがお昼前に顔を出してくださいました。
現役の様子をおもんばかってことです。
楽しみ半分、不安半分というところですから、
気分が落ち着かないのでしょう。
午後から山元さんがコートに来られました。
女子への助言も考えて覗きに来られました。
杉山さんが、清清しく出てこられました。
若若しく、マッチもこなされていました。
岡田さんが楽しそうにコートに出てこられないという
さびしさがありますが、現役とマッチを真剣に
こなされる若手部長には、新しい魅力があります。
忙しい中を、池辺さんが覗きに来られました。
いっぺんは覗いておかないとなあ、と目は真剣でした。
本当に一瞬の間の出来事で、新歓コンパ終了まで
気の抜けない緊張の中で忙しくすごされる予定のようです。
だからこそ、実際に自分の目で現役の様子を
確かめておきたいと矢も堪らず覗きに出て来られた様です。
中瀬君、林君、あるいは伊東君も
現役の様子に抜かりない目を向けていることが
良く分かりました。彼らの篤き心に感謝です。
新入生にきちんと挨拶もせず、失礼なことになったままで
帰って来ましたが、リーグ直前の練習という
時なので敢えて諸注意だけを話して帰ったのです。
大学も時代とともに大きく変わっています。
先輩が、先輩というだけで、先輩面をする
時代では有りません。常に現役が主役です。
先輩がたまたま顔を出せば、得たりや応と
どんどん利用してもらえれば良いのです。
ただ、利用すると云っても、無条件に
ちやほやする対応を期待してもらうと
ちょっと当てが外れるというものです。
利用してもらえると云っても、自分達の経験を
前提に助力をしようというのですから、
経験を無視するかのごときの利用の仕方には
上手い対応の仕方が考えられないからです。
ある程度の時代の落差は容赦して理解してもらう
必要があります。こちらもこの落差は前提していますから。
平常心への関心は同じですが。
兵法家伝書に曰く;
○僧古徳に問ふ、如何なるか是れ道。
古徳答えて曰く、平常心是え道。
右の話し、諸道に通じたる道理也。道とは何たる事を
云ふぞととえば、常の心を道と云ふ也とこたえられたり。
実に至極の事也。心の病皆去って、常の心に成りて、
病と交じりて病なき位なり。世法に上に引き合ひていはば、
弓射る時に、弓射るとおもふ心あらば、弓前(さき)乱れて定まる
べからず、太刀使ふ時、太刀使ふ心あらば、太刀前定まるべからず。
物を書く時、物書く心あらば、筆定まるべからず。琴を引くとも、
琴をひく心あらば、曲乱るべし。弓射る人は、弓射る心
をわすれて、何事もせざる時の常の心にて弓を射ば、
弓定まるべし。太刀使ふも、馬に乗るも、太刀つかはず、
馬のらず、物かかず、琴ひかず、一切やめて、
何もなす事なき常の心にて、よろずをする時、よろずの事、
難なくするするとゆくなり。道とて何ても、一筋是ぞとて
胸には何事もなくして、又何事成りともなせば、やすやすと
成るなり。
五輪書に曰く;
一 兵法心持の事
兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に
替わる事なかれ。常にも、兵法の時にも、
少しもかはらずして、心を広く直ぐにして、きつく
ひっぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、
心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、
そのゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、よくよく
吟味すべし。静かなる時も心は静かならず、何とはやき時も
心は少しもはやからず、心は躰につれず(とらわれないで)
心に用心して、身には用心せず、心のたらなく事なくして、
心を少しもあまらせず、うえの心はよはくとも(外見は
弱く見えても)、底の心を強く(本心は強くして)、
心を人に見分けざるようにして、少身なるものは
心に大きなる事を残らずしり、大身なるものは
心にちいさき事をよくしりて、大身も少身も、
心を直ぐにして我が身のひいきをせざるように
心をもつ事肝要也。心の内濁らず、広くして、
ひろき所へ知恵を置くべきなり。知恵も心も
ひたとみがく事専なり。知恵をとぎ、天下の
理非をわきまえ、物事の善し悪しをを知り、
よろずの芸能、その道その道を渡り、世間の人
に少しもだまされざるやうにして後、兵法の
知恵となる心なり。兵法の知恵において、
とりわき違ふ事有るものなり。戦いの場万事
せわしき時なりとも、兵法の道理を究め、
うごきなき心、よくよく吟味すべし。
五輪書の言葉
一 有構無構のおしえの事
有構無構といふは、太刀をかまゆるといふ事
あるべき事にあらず。されども、五方(太刀の
構えの分類、上段・中段・下段・左脇・右脇)に
置く事あれば、構えともなるべし。太刀は、敵の
縁により(敵の出方をきっかけとして)、景気に
したがい、いずれの方に置きたりとも、其の敵
切り良き様に持つ心也。・・・構えはありて構えは
なきといふ利也。先ず太刀をとっては、いずれにしてなりと
も、敵を切るという心也。もし敵の切る太刀を受くる、
はる、あたる、ねばる、さわるなどいふ事あれども、
みな敵を切る縁なりと心得うべし。うくると思ひ、
はると思ひ、あたるとおもひ、ねばるとおもひ、
さわるとおもうによって、切る事不足なるべし(思いきり良く
斬ることができないのだ)。なにごともきる縁と
思ふ事肝要なり。
別の所では、他流派の兵法を批判している。
一 他に、太刀の構えを用いる事
太刀の構えを専にする所、ひがごとなり。
世の中にかまえのあらん事は、敵のなき時の
事なるべし。その子細は、昔よりの例(ためし)、
今の世の法などとして、法令をたつることは、勝負の
道には有るべからざる。そのあいての悪しきように
たくむ(たくらむ)事なり。物毎に構えといふ事は、
ゆるがぬ所を用いる心なり。
あるいは城をかまゆる、あるいは陣をかまゆるなどは、
人にしかけられても、つよく動かぬ心、これ常の儀なり。
兵法勝負の道においては、何事も先手先手と心懸くる事なり。
かみゅるといふ心は、先手を持つ心なり。よくよく工夫あるべし。
兵法勝負の道、人の構えをうごかせ、敵の心になき事をしかけ、
あるいは敵をうろめかせ、あるいはむかつかせ、又はおびやかし、
敵のまぎるる所の拍子の理を受けて、勝つ事なれば、
構えといひ、後手の心を嫌ふなり。しかる故に、
我が道に有構無構といひて、かめはありてかまえは
なきといふ所なり。
岩波文庫 渡辺一郎校注
宮本武蔵著 「五輪書」
を買ってきました。拾い読みしています。
一 兵法の拍子の事
物毎に付け、拍子は有る物なれども、とりわき
兵法の拍子、鍛錬なくては及びがたき所也。
世の中の拍子あらわれてあるある事、乱舞(能)の道、
れい人(伶人、楽人)管弦の拍子など、是皆よく
あふ所のろくなる(正しい)拍子也。武芸の道にわたって、
弓を射、鉄砲を放ち、馬に乗る事迄も、
拍子・調子はあり。・・・・
兵法の拍子において様々有る事也。先ずあふ拍子を知って、
違う拍子をわきまへ、大小・遅速の拍子の中にも、
当たる拍子を知り、間の拍子を知り、背く拍子を知る事、
兵法の専也。此の背く拍子をわきまへ得ずしては、
兵法確かならざる事也。
一 兵法の目付けといふ事
目の付けやうは、大きに広く付くる目也。
観見二つの事、観の目つよく、見の目よはく、
遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、
兵法の専也。敵の太刀をしり、いささかも
敵の太刀を見ずといふ事、兵法の大事也。
一 足づかいの事
足のはこびやうの事、つまさき少しうけて(浮かせて)、
きびす(かかと)をつよく踏むべし。足づかいは、
ことによりて大小・遅速ありとも、常にあゆむがごとし。
足に飛び足、浮き足、ふみゆする(固着した状態)足とて、
此の三つ、きらふ足也。
良いお天気であったが、残念です。
いえ、申し訳ありません。
こーとを覗けませんでしたね。
ここまで進めてきた、
いや、現役だけのことを言っているのではない、
いままで、吉田コートに汗を流してきたすべての
部員の事を思い浮かべているのだが、
テニスをもっともっと進めようと言いたいだけである。
進めるというのは、
試合に勝つ事で実現されるのだが、
どうやって勝つ事を可能としたかが
面白いのだ、面白がるのだ、という
態度をとるということだと、表現するのだと、
言いたいのである。
そのために言葉が使われ(言葉を使いやな)、
論理を重ね、話しを進めて、
現実と比較して内容を作ろうというのだ。
基礎を固め、基本に忠実に、
テニスをプレーしようと言うのだ。
兵法というと、遊べない。
とらわれの無い心を持つ点では共通するとか
言っても、スポーツとは同一視できないだろう。
まあ、時代が入るから、時代を跳び越える事はできないから、
精一杯生きるという中での心掛けだと言うのであろうか。
どこか通じさせるところを探す事も可能になるだろうが、
そうそう神経質になる事も無いと思い、すっぱり
スポーツとして区別をしておこう。
満足は、なかなか求めて得られないものだが、
得難いが為に求めるという「はまった」状態こそ
遊びである、面白いのだと、励む事にしよう。
「病、病気」などと、なかなか工夫しているところは
面白いです。
兵法での平常心をスポーツでの心持ちにするのは、
どこか無理があるように感じますが。
なんでも兵法に持ってくるのはできても、兵法を何にでも
使おうとなると、時代が無いとちょっと無理スジのように思います。
「真剣」に生きるという言葉も、どうなんですかね。
自力を強調するのも考えるところは深いのではないでしょうか。
他力をどこまで深く考えるのか。
若者の鍛錬と、若者の成長が、始まっているのです。
昨日、少し空模様は危なげだったが、昼前吉田へ。
女子部が練習していたので、少し入れてもらって。
午後からは、男女とも、新入生の顔見せ練習会なるもの
をするというので、「平和」で腹ごしらえをして、再び
コートへ。
二宮君も小林相手に若わかしく(!)乱打してましたね。
やがて、新入生とおぼしき若者たちが三々五々集まって来て、
コートで乱打が始まった。
男女それぞれ、7、8人。皆な結構打てるぞ。
このまま、全員入部してくれれば、またとても面白いぞ
と、老人後ろで一人にこにこ。
少し雨脚が強くなって来たので、一足お先に失礼したが、
予定のバーベキューは盛会となっただろうか。
コート内外で新入生の心をとらえただろうか。
次の機会を楽しみにしたい。
部屋の中にこもっていると、寒かったが。
暖房機を点けていた。
夕方からは雨が降ってきた。
いまは雨もあがった様です。
兵法家伝書・・・・
一 病気の事
勝たんと一筋に思うも病なり。
兵法使はむと一筋に思うも病なり。
習いのたけを(すべてを)出さんと一筋に
思うも病、かからん(懸)と一筋に思う病なり。
またん(待)とばかり思うも病なり。
病を去らんと一筋に思い固まりたるも病なり。
何事も心の一筋にとどまりたるを病とするなり。
この様々の病、皆心にあるなれば、これらの病を
去って心を調うる事なり。
一 病を去るに初重・後重(初心稽古の段階と
仕上げの段階)の心持ある事
病を去る初重:
念に渡って無念、着に渡って無着(沢庵の教示)。
(解説して)
病を去らんと思うは念なり。心にある病を去らんと
思うは、念に渡るなり。又病というも、一筋に
思い詰めたる念なり。病を去らんと思うも念なり。
しかれば、念をもって念を去るなり。念を去れば
無念なり。ここをもって、念に渡って無念と云うなり。
念に残りたる病を、念をもって去れば、後は去る念も
さらるる念もともに無くなるなり。(抜けない楔には、
もう一本楔を打ち込めば、両方が抜けるようになる
原理であるという)
病気が去れば、病気を去る念も後には残らぬほどに、
念に渡って無念と云うなり。
後重:
いっこうに病を去らんと思う心の無きが病を去るなり。
去らんと思うが病気なり。病気に任せて、病気の
うちに混じりているが、病気を去ったなり。
病気を去らんと思うは、病の去らずして心にあるゆえなり。
しからば、一円(全然)病気が去らずして、するほどの事、
思うほどの事が着してする事に、勝利ある(良い利益)
べからず。答えて云く、初重・後重と、二つ立てたるは
この用なり。初重の心持を修行して修行積もりぬれば、
着を去らんと思わずして、ひとり着が離るるなり。
病気と云うは、着なり。修行をもって、心の玉を
みがきて穢れに染まぬやうにして、病に任せて心を
棄て切って、行きたきようにやるべきなり。
そして平常心を説く。
平成12年卒の寺谷です。みなさまお久しぶりです。
表題の件ですが、園田さんや冨山さんからのご提案で、
年代を問わず一度関東在住のOBが集まって
テニスをして宴会をして楽しむ日を作ることを
以下の通り計画しております。
まだ詳細について決まっていない部分も多いのですが、
コートも充分確保できていますので
お忙しいとは思いますがお集まりいただけると幸いです。
私宛メールでも本掲示板でも結構ですので
参加・不参加の予定をご連絡ください。
よろしくお願いいたします。
もしインターネット環境にないOBの方等いらっしゃいましたら
ぜひみなさまからもお声掛けいただきたく、
よろしくお願いいたします。
記
関東在住全OB会
日時 2007年5月27日(日)
第1部テニス
場所 私学事業団総合運動場
東京都葛飾区東新小岩1−18−1
(最寄駅JR総武線「新小岩駅」北口から徒歩7分)
時間 午前11:00より午後4:00ぐらいめど(宴会詳細
未定のため)
11:00−13:00(3面)
11:00−17:00(4面)
第2部宴会
まだ詳細未定です。
人数などが見えてきたら詳細を決める予定です。
およそ18:00ぐらいから、場所はおそらく
銀座や新橋などになる可能性が高いと思います。
以上
耄碌しています。
赤ちゃん放置のBOXだけでなく、
世話できぬ耄碌を放置するBOXも・・・
(どうも長い・・・・)
完全市場、自由市場を声高に叫ぶ人は
どんなときでも主張するはずですが。
自由を叫ぶ人は、自分の自由を守るため、
人の自由を守ろうとするのです。
悪人なおもて往生す、という感じでしょうか・・・・。
総論賛成、各論反対が常識であり、社会通念です。
総論で他人がすべて動けば、楽なものです。
ひとり自分は別に利を求めて動くのは「自由」のはずです。
これが自由の醍醐味なのですから。
都会と地方の対立。戦後民主主義(もう何十年も前に
終わっている古い思想です)による格差是正だったのです。
南北対立は、この十年少しずつ姿を変えてきている
と私は思います。
民主主義の中の格差是正を求める対立が、
金融主義と環境主義の対立といま平行して
いるように感じます。
国家主義や民族主義がその中をどのように
泳いでいくのでしょうか。
競争をあまりに求めて進み過ぎると、
人を人とも思わなくなる。甘えがなくては、
進めなくなる。人とはそんなものだと(だから
損なものだ、と言うのかもしれない・・・)、
先頭を行くもの、落伍したものは言い切るのだろうか。
2番手、3番手は、何をするかも知れない・・・・・。
空を持って来るか、絶対者にすがるか・・・・・。
人間の能力ではどうしようもない・・・・。
なんてのがゲーデルの定理に触発されやすい気持ちかも
・・・・・・。
スポーツの競争は、兵法とは違う。と私は
沼田さんに、言っていた・・・・(かな?
いや言えなかったかもしれん。)
宗矩さんは、大名になるのが願いだった。
長男十兵衛は、そんな父親に見事にしたがったか・・・
NHK 柳生十兵衛 最後の闘い(あれっ?
アルツハイマー?タイトルを忘れてしまった・・・。
3分後には記憶がなくなるのが・・・・・)
津本さんの解釈は、母親思いの結果としている。
テニスは、基本と基礎に忠実な
高度なものに進みたいですね。
誠意を尽くして・・・・・。
まごころを・・・・・・・。
心をあらわにしては、敵に覚られる。
有限の存在でしかない人間に無限の能力を
要求するのでは・・・・・・。
お互い分かり合って、冗談も言い合って
競い合おうではないか・・・・・。
最も真剣なときにこそ、冗談を交える
ふくらみが欲しい・・・・・・。
ほんま、あー言えばこう。こういえばあー。
埼玉県の知事さんが、また素朴なことを
いいはったみたいですね。
軍隊は、人殺しを毎日練習している。てなことらしい
のですが・・・・・。
「兵法は人を切るとばかり思うは、ひが事なり。
人を切るにはあらず、悪を殺すなり。一人の悪を殺して、
万人を生かすはかりごとなり。」兵法家伝書だ。
どっちもあまり変わらんな、などという人も
多いかもしれん。
宮崎県知事の東国原さんも、高度なギャグは
難しすぎたと反省されていました。
差し障りのあるものの言い方は、止すべきである、
と言うのが定法である。
「若気の至り」は年寄りの専売特許なのか、と
訝しく思う。
差し障りとは、差し障りがどのように作用するというのか、
いくらかでも差し障りがあってはならぬとするの根拠は何か。
これ幸いと、あるいは、あれっそうなのかと、
どちらにしても一斉に方向転換が起こる、
つまり世の中の人の気持ちが変わってしまうことに
対処できない無能無策に、逆上するのだろうと考えてしまいます。
探せば、逆に利を手にする人が見つかるはずです。
損をした、あるいは損を予想する(予想は、必ず当たるとは
限らぬはずだが)人が、ぶうぶう声をあげるのが
世のならいなのでしょう。
仏教で、現実に働く心の問題を
徹底的に考えた学派は、弥勒(270ころ
から350ころ)の始めた 瑜伽行派である
という。無着と世親兄弟(4世紀後半)によって
完成された。「唯識説」である。玄奘三蔵による
翻訳紹介と中国法相宗、これが奈良時代に
日本へ伝わった。法相宗のお寺は、清水寺や
興福寺が有名である。
法相宗では、心のはたらきを
眼識(げんしき),耳識(にしき),鼻識,舌識,身識,意識、
さらに2識
未那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)
の合計8種類に分ける。
始めの5種は、感性であろう。
次ぎの意識は、考える(概念操作)働きか。
これはカントの「悟性」に当たるか。
(私は、まったく知識がない。説明しているのではなく、
話しの筋道として、道すがらの風景を述べているだけです)
残りの2意識は、潜在的なもので、
自己防衛や本能的な潜在意識と
もっと人間存在(動物としてではない)の根拠
となるべき潜在意識の働きとでもいうものらしい。
阿頼耶識は、機能的なものでこれ自体には宗教性がない。
つまり人間の善悪には直接関係しない。そこで、善悪を
考えたとき、阿頼耶識を善的に保証する宗教思想が必要となる。
本来は清浄であるという自性清浄心、地論宗では
「無垢識」、大涅槃経では「仏性」と表現しているもの、
これが根底に存在しているとする。華厳宗の教えとは、
このような、自性清浄心の構造と働きを明らかにする
とされる。
華厳宗は、
第一祖:杜順(557−640)、第ニ祖:智儼(602−668)、
第三祖:法蔵(643−712)、第四祖:澄観(738−839)、
第五祖:宗密(780−840)
と続く。
ホータンで編纂された華厳経を中国に持って来たのは、
支法領という人で、それを訳したのは仏陀跋陀羅
(359−429)=覚賢とされる。400年のころである。
彼は、インド西北部からインダス川と渡り、
ガンジス川上流に出て、それを下り河口から
ビルマに上陸し、陸路カンボジア海岸に出て、
再び船に乗ってハノイに出て、さらに山東半島に
来らしい。4、5世紀の東アジアとインドの
海路の発達は目覚ましいものであった。
同じ時、西域から捕虜として鳩摩羅什(344−
413)が亀茲国(の王子だった)から連れて来られている。
彼は大翻訳家として知られているが、竜樹の空観を
広めた。華厳経の第二回目の翻訳は実叉難陀(652−
710)が行っている。則天武后のときである。
「自分探しの旅に出てみましょう」という
政治家が出現する世の中、いや、日本になったかあ。
こんなすごい社会はちょっと考えつかなかった。
政治家とは、自分が何者かがよく
把握できている人だと思っていたからだが。
いくらできそうに無いことを言うのが政治家だと言っても
(できることしか言わない=先生、死後のことを
言う=宗教家らしい)、自分を探せとは、これはまた
すごいことだ。
足下を見よ、自らを省みよ、遠くばかり見て
あーだこーだと、要求ばかりしているから、
安心立命はないのだぞ。
かもしれん・・・・・。
また、こういう会議に賢人が湧いて出て来るというのも
すごいものだ。
確かに、森さんの言うのは正しいかもしれない。
神の国でなければ無理やろう。
神を求める、野蛮な国とは違うで・・・・。
(そうなると・・・・あの人はどうなるのかな?
やっぱり人ではないのか・・・・な)
色即是空。一即多。空。
仏教というと、こういうことになろう。
あわれ(もののあわれ)。幽玄。わびとさび。粋。
日本文化の精神。日本人の心。
しかし、信長、秀吉の精神が好きな人もある。
奈良仏教の無国籍な広がりもあった。
縄文時代はどうやと聞かれると返答に困るが・・・・。
空即是色。多即一。も同時に成り立つ。
こちらの方が、影が薄いように感じる。
小さい方、極小の方に偏り過ぎではないか。
インドは、どうも逆のようである、と解説するひとがある。
中国は、徹底的に現在、現実だそうだ。
際限もない広がり。そんなものは、言葉だけ
あるが、なんのことやら意味さえ持たない、と
なるのかどうか。
一適の雨粒の中、露の中に宇宙全体が入っている、
こういう言葉のほうが、我々は好きなのだろうか。
則を越えず。僭越は認めない。
控えよ。慎め。
考えるということは、実に面倒なことではある。