もう冬のコスチュームは大袈裟ですね。
コートへ出て行く道すがら、たとえば
バスの中のみなさんの会話にも、
暑いわねー、もう暑くて困る、という
声がたくさん聞こえていました。私も
そうだな、汗が出て来るな、窓を開けようと
バスの窓を少しだけですが開けました。
風もほとんどなく、ぽかぽかと
よい天気です。テニスの方は、
たしかに合宿を終えたということは
分かりましたが、爆発するような
力強さを感じません。どうしたのかな?
と少しだけですが、気になりました。
午前11時から練習を見ました。
ちょっとおかしいな、と感じました。
合宿前より確かにちゃんとはなっているのですが、
ちゃんとなっていないのです。
きちんとしようとしているのは、
よく分かるのですが、きちんとなっていないのです。
下手ではないのですが、上手ではないのです。
どういう点がおかしいのか。
おかしいというところを直さないのが
おかしいのです。いや、ちょっとおかしいなとは
意識しているのですが、それを直す方法が
おかしいのです。直すはずが、直らない
方へ意識が向いているのです。
たとえば、ラケットの振りが鋭くありません。
打点が曖昧です。打点から振り切りまでの
振りが定まっていません。普通は、それならと、
打点から振り切りまでを先ずイメージして
完成させます。それを打点の少し前にラケットを
構えようとします。構えようとすると
ボールが飛び込んできます。あわてて
振り出します。上手く打てません。ますます
難く構えます。とても打てそうにありません。
軽く打つという発想がないのですね。
硬く構えてしまう。
腕の振りだけで打とうとする。胸の動きが
おかしい。腰をしっかり構えて。上半身を
使って腕を振り制球を正しくする打ち方を
作ろうとしない。
ラケットを縦に振るのか,横に振るのか、
どのような違いがあるのか、ラケットから
どのようにボールを打ち出すのか、
とにかく結果に怯えて、結果を求めようという
根気がない。
テニスが面白い、と思った初心の頃の
初心な気持ちを忘れている、としか思えない。
そういえば、あまり楽しそうに見えない。
初心の頃なら、上手く打てなくても、ラケットに
ボールが当たるだけでも楽しかっただろうに。
もうちょっと楽しそうに、愉快そうに、
嬉しそうに、プレーできないものか。
今年は創造的にコートに立って欲しいのだが。
山元さんが、昼過ぎまで女子の合宿を見て、
夕方吉田に足を運ばれました。で、いつもの所で、
二人で飲んで、盛り上がったのですが。
二人が楽しんで、学生が楽しまないのではねー
1008年8月「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿の
有様、いはむかたなくをかし。」と始まります。8月中旬で
しょうね。道長の娘彰子が一条天皇の子供(敦成親王)を
懐妊して道長の邸に戻って出産することとなる記事です。
「八月廿日あまりのほどよりは、上達部 殿上人ども、
さるべきはみなとのゐがちにて、橋の上、對の簀子
などに、みなうたた寝をしつつ、はかなうあそび明かす。」
月末になるとだいぶ緊張して来る、九月に入り祈祷など
本格化して「人げおほくこみては、いとど御心地もくるしう
おはしますらむとて、みな東おもてにいださせ給うて、
さるべきかぎり、この二間のもとにはさぶらふ。」状態になる。
なにせ出産は今と違って(いや今でもそうであるとも言えるが)
命がけである。死産はむろんのこと、母体の安全はなかなか
保証されない。心配は尽きない。何かあれば、その原因は
どこまでもさかのぼって詮索される。権力者にとっては
実に面倒なことである。出産が無事にすめば、未来は
開ける。なにやらギャンブルにも似た状況に置かれるの
ではないか、などと茶化してみたくもなるほどだった。
それほどの男女差を紫式部は冷静に見ていたらしい。
9月11日正午無事出産は行われた。「午の時に、空晴れて、
朝日さしいでたる心地す。たひらかにおはしますうれしさの、
たぐひもなきに、男にさへおはしましけるよろこび、いかがは
なのめならむ。」もう邸はおめでたで大騒ぎになる。次々と
儀式が行われひっきりなしにお祝いに人々がやって来る。
3、5、6、7、8、9日後の出来事を記す。10日を越えての
ある日など、道長が赤子におしっこをかけられて喜ぶ様を
記す。その後一条天皇が邸にやって来た10月16日と
17日の記事がある。11月1日は誕生後50日の祝儀が
行われた。上達部達が酒に酔っ払って大声ではしゃぐ。
なかで「左衛門の督、「あなかしこ。このわたりに、わかむ
らさきやさぶらふ」とうかがひ給ふ。」なんていう藤原公任
もいた。それでは道長は如何というと「おそろしかるべき
夜の御酔ひなめりと見て、事はつるままに、宰相の君(敦成
親王の乳母となった道綱の娘豊子)にいひあわせて、隠れ
なむとするに、・・・ふたり御帳のうしろに居かくれたるを、
とりはらはせ給ひて、・・・「和歌ひとつつかうまつれ。
さらばゆるさむ。」とのたまはす。・・・聞ゆ。
いかにいかが かぞへやるべき 八千歳の
あまりひさしき 君が御代をば
「あはれ、つかうまつれるかな」と、ふたたびばかり誦ぜさせ
給ひて、いと疾うのたまはせたる、
あしたずの よはひしあらば 君が世の
千歳のかずも かぞへとりてむ
さばかり酔ひ給へる御心地にもおぼしけることのさまなれば、
いとあはれに、ことわりなり。」
もう止めようと思っていたのですが、つい読んでしまって、
面白くなってしまったのですが・・・・・・・。傍迷惑の
お調子乗りといったところです。
源氏物語は難しいので、紫式部が難しいのだろうと、
敬遠していたのですが、えーいままよと岩波文庫の
「紫式部日記」に手を出したのです。これがなんと
なかなか面白くて・・・・・・。しかし専門的にはずいぶんと
難しいことがあるようでたいへんなようです・・・・・・。
そもそも日記の原本が見つかっていないのですから、
果たして紫式部が実際にどのように書いていたのか
不明ということですね。後の写本を頼りに読むのです。
原本と違うところや不明の所が幾つもあるに違いない
ですね。でもそんなことを言われたら私なんかには
どうにも仕方がないですから・・・・・・。あくまで岩波
文庫のものを読むだけです。凡例には、底本として
名古屋市立図書館本を使ったが、諸本と絵詞など
他の本文資料との校勘により改変訂正を加えたとある。
また漢字と仮名の配合や送り仮名と仮名づかいなどは
適時改訂したとのことだ。また公卿らの補注が上下ニ巻
巻末にそれぞれ付いているが割愛しているらしい。
私は、しかしこのような注意がどのような意味を持って
いるのかよく分からないままです。まあ、それでも、あく
までいい加減なのですが、つまりまともな解釈は出来
ていないことが確信できますが、面白いと実感できま
した。千年前の女性の書いたものを読むという、どう
も不思議な経験です。でも、アリストテレスが、プラトン
が、タレスが、孔子が、荘子が、釈迦が、キリストが、
と平気で読んでいるのですから、訳者がすばらしい働きを
していて、しかもし過ぎている為、そのことさえ感じないで
済ますことになっている程だとも気が付かないで、読んだ
気になっていることを思えば、不思議と感じなくてもよい
のかも知れません。校注の池田亀鑑さんと秋山虔さんに
感謝を申し上げます。
どのように面白いかと言うと、実際に書いてあるようなことが
次々と起こったのであろうかと思うからです。つまり創作部分は
ないのかということです。次にそのような出来事はあっただ
ろうが、果たして書いてあるような意味合いを持っているのか。
他人の証言と照らし合わせて始めて確定することではないか。
どんな日記でも、当人が自分を飾る為いつわりを書くことは
あるのではないかと云う点です。そうして、なにか一編の
作品として作り上げたのではないかとの疑いですね。
「日記」という言葉でこれらの点を打ち消すことはできないなあ
と思うのですが・・・・・・。と思うと、彼女の人となり、実力に、
一度逢ってみたいものだ、できたら一緒に酒も飲みたいなあ、
いや道長さんは面白かったのではないか、羨ましいな、・・・
なんて思ってしまうのですが。
女子部副将の手邊です。
明日からの春合宿の詳細日程です。
遅くなってしまい申し訳ありません。
日程:3月16日〜19日
場所:大阪服部緑地公園内テニスコート(クレーコート)
宿舎:服部緑地ユースホステル
時間
16日:10〜12、13〜17時
17日:9〜12、13〜17時
18日:9〜12、13〜17時
19日:9〜17時
神戸大学、名古屋大学の方々と合同で行います。
シーズンインから約2週間、合宿に向けて基礎を確立できるよう練
習してきました。この合宿では、多くの刺激を受けて、それぞれ
が自分の長所短所に気づき、レベルアップできるよう、精一杯練
習に取り組んでいきたいと思います。
OB・OGのみなさん、どうぞ応援よろしくお願いいたします。
失礼します。
明治維新は、江戸時代の幕藩体制を一新し、近代日本を
出発させる基点であった。慶応四年三月十四日(新暦
1868年4月6日)布告の「五か条の御誓文」は注目される。
この公布は、京都御所正殿の紫宸殿で、「天神地祇
御誓祭」という形で行われ、天皇の勅命によって有栖川
宮幟仁(たかひと)親王が正本を揮毫し、太政官日誌に
掲載されて一般に公布された。その漢字の書き方は
奈良時代に書かれた正倉院にある中国六朝風の
書体で書かれた写経文書にそっくりである。それに、
小さなカタカナで送り仮名がつけられている。書き方
としては奈良時代の宣命の形に倣ったものである。
明治維新が国家としての日本の確立を目指す意気
という点で、国家の曙期と同質の精神にあったと
思われる。
<いろは>は情緒の世界のものである。これに対し、
<アイウエオ>という<カタカナ>は、大槻文彦が
日本語の文法を説明するのに的確だと認識した
ものであり、また役人が漢文体を使って公式文書を
書く時に使われるような、システムを構築するものである。
明治という時代は、情緒よりシステムの構築を必要と
した時代であった。そもそも<アイウエオ>はサン
スクリット語に由来するシステムである。「阿吽」なる
言葉があるが、空海が書いた書物には、「吽」は
サンスクリット語で、「h」「u」「m」の音が合体したもの
とし、これはまた「阿」が表す初元の本体と同一であ
るとされている。真言宗の世界観からすれば「あ」
から始まり「ん」で終わるという日本語の辞書は、
宇宙の元始から始まることによって無限の存在を生じ、
そしていつか収束して再び芽となって新たな世界を
創成する曼荼羅という世界観に基づいたものなのである。
日本語は、<いろは>と<ひらがな>が1組となって情緒や
繊細さを伝え支える世界と、<アイウエオ>と<カタカナ>
が1組となって国のシステムを支える世界とで培われ
てきた。そしてこれら情緒と論理の2つの世界に漢字
はまたがっており2つの世界をつないでいるのである。
こうして、日記への興味は日本語や仮名につな
がってしまいました。するとお隣の言語「ハングル」へと
関心は向かいます。こうなると、ますます間口が広がって
収拾がつかなくなるかのようですが・・・・、それはまた
別の話ということで・・・・・・・・。
予報通り雨になりました。なんとか
せめて午前中だけでも練習できないか
と一縷の望みを持って家を出ましたが、
(スタイルは完全に雨降り用にしましたが)
コートに着いた頃は本格的に降っていました。
幸いボックスには灯かりがついていましたので、
ドアをノックして誰か出て来ないかと
たずねました。馬場が顔を出したので、
先日の試合の結果を聞きました。なんとなく
予感がありましたので、どうしても聞きた
かったのです。果たして私の山勘は当たっ
ておりました。でひとくさり、言葉を掛け
てしまいました。あはー、年寄りのくどさですね。
結果を「試合結果」に報告して欲しいと思います
が、いかがですか。是非お願いします。
ちょっと思うところがあったので、お昼まで
吉田から北白川天神宮へ、何年ぶりでしょう、
歩いてみました。神社は思っていたのとだい
ぶ印象が異なっていました。なにせ55年近く
昔のことですから、ほとんど記憶もないのでした。
母校の北白川小学校の前を通り、御蔭通りを
東山通りまで西に歩いて、一条通りのいつもの
レストランに出ました。そこでいつものように
いつものメニューで昼食をとり帰宅しました。
杖を持たずに歩いたので、だいぶ膝が痛かった
です。そして疲れました。
御蔭通りでは高原町で田中神社の前を通りました。
北白川天神宮と2つの神社を見たことになります。
雨の中でしたが、半世紀ぶりに生まれ育った
土地(正確にはその周辺)を散策しました。
気持ちがよかったです。(女子の結果を聞いたからかな)
こんなに長々と引用するなんて・・・・・。ちょっとおかしい
かも知れません。ついつい個人用のメモを引き写してし
まったとお笑い下さい。
山口さんからの引用の最後です。
日本語の辞書が本格的になったのは、大槻文彦氏の
「言海」が1889〜91年に作られてからである。我が国
最初の近代的日本語辞典である。平安時代以来これま
での我が国の辞書は、漢和、もしくは和漢対訳の辞書で
あって、純粋な意味での日本語の辞書ではなかった。
日本語辞書は、日本語で日本語を解釈する辞書でな
ければならない。そしてなによりも辞書は、文法の規定
によって作られるべきだ。文法を無視して、ただ語釈
だけを施すだけでは辞書ではないというのは、彼の
祖父蘭方医大槻玄沢(「解体新書」の杉田玄白の
弟子ですね)の影響であった。和蘭語を理解するには、
品詞、動詞の変化、時制などを知る必要があるが、
こうしたことを子供の頃から勉強させられていたのだ。
大槻文彦は、1890年日本語の文法上の原則をまとめ、
「語法指南」という書名で出版している。本来は「言海」
の付録として出版されるはずであったものが、学校
教科書としての日本語文法との要求に応えた出版で
あった。
この巻頭には、<ひらがな>と<カタカナ>で五十
音図を示し、「お」と「を」、「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」
の発音がそれぞれ口内の調音の場所が違うこと、また、
濁音、半濁音の別があることを丁寧に示している。
そして名詞に普通名詞と固有名詞があることを述
べた後に、動詞の変化を分類して、すべての動詞が
「う」段で終止形となること、そして「う」段を中心に
四段、上一段、上二段、下一段、下二段に活用する
五十音図においてよく観察できるという。これは、
本居宣長によってある程度は説明されていたことでは
あるが、大槻のこの書物が非常に近代的な方法で
より明らかにしたことであった。五十音図はここへ来て、
日本語の動詞の変化を理解するためになくてはならない
システム、不可欠の道具であることが確認されることに
なったのである。
こうして仮名が出来て行く過程を考えることとなります。
ひらがなと かたかなが 出来るわけですが、一方は
情緒を一方はシステムを担うのです。つまり「いろは歌」
と「五十音図」です。
漢字が伝来する以前、日本には書き言葉がなかった。
書く技術を持っていたのは中・朝の帰化人達である。帰化人
の力を借りて、漢字の形の省略形を使って発音記号を
作っただろう。また日本語の音の分析もしただろう。
これには仏教徒の業績が使われたに違いない。
サンスクリット語の発音を漢字の音構造の分析に
基づいて表す技術がもたらせられていた。かたかな
の発明は必然的であった。ひらがなは、漢字の草書体
を利用して作られた方法である。はじめは草仮名と呼ば
れていた。ひらがなの呼称は江戸時代になってからの
ものという。
こうして、まず言葉を書く術がないところに漢字が伝来し、
やがて漢字の形の一部を利用するカタカナが、全体的に
デフォルメした草書体を利用するひらがなが、新しい
我が国独自の文字となっていった。
漢字で書かれたものを女性が読むことを忌む慣習があった
平安時代、カタカナは男性が漢文を読むための補助記号
として発達している。カタカナは、古くは豆仮名とも呼ば
れて漢字の大きさの3分の1以内で漢字の側に記して、
読み方などを書いていく。本来は仏教経典や漢文を訓読
して行く補助手段として生み出された。
和歌は基本的に漢語を使用しないで、大和言葉=和語
をもって作られる。これが日本語の語彙を発達させた
原動力である。次第に日本語らしい優しさを帯びた文字で、
物語なども生み出されていく。(ここに女性の働き、歌物語、
日記の位置付けがなされるとずいぶん内容のある論となった
のではないかと、勝手ですが、僭越ですが、思いますね)
もともとは外国語の言葉であるという意識のもとに漢字で
書かれ、そこに日本語としては不完全ないし不整備なも
のを表す<カタカナ>で読み方が付され、次第に生活の
中に浸透して日本語化することによって、ようやく
<ひらがな>で書かれるようになったのである。
<カタカナ>とはつまり、外来語を借用することが多い
日本語では、それを消化する過程としてなければならない
記述記号だったのである。
あれれ、目が見えていない。
いや顔が・・・・。
顔 が 願 になっている!!
まだ山口さんの話ですが・・・・・
日本が国家としての整備を始めた頃、お手本の
唐は、『言語』を中核にして作られていた。この
ことは中国における漢字の歴史を見れば明ら
かである。『願氏家訓』(梁から隋の時代の
願之推が、子々孫々に遺した訓戒。彼の孫の
願師古は漢書の注釈をしている。太宗の勅命
を受けて、孔頴達とともに、唐の思想的基盤
を作った『五経正義』を編纂している。さらに
願師古の弟の孫である願元孫は、「科挙に
合格して官僚となった際にはこのような文字
を書くべし」と字体をまとめた『干禄字書』を
つくったが、この中の字は、彼の甥願真卿に
なるものである。))を見れば言語に対する深い
考察がわかる。(ちなみに、「名は以って体を
表す」はこの中にある古諺である)
儒教では、家を守ることはすなわち国家を
安泰に導くためのもっとも重要な要素である
として、漢代以後これを『孝』とうい言語で表現
した。願之推は、唐代に生きた子孫に、言語
を正確に使うという思想を深く教えることなった。
彼の業績として「反切」という方法で漢字の
発音を示したことがあげられる。601年になる
『切韻』に詳しい。隋から唐における、願氏一
族による言語に対する研究は、唐大帝国を
維持するための礎となった。国家にとって、言語が
大切である。国家とは言葉である。この思想は
やがて遣隋使や遣唐使で日本にもたらされる。
日本語の誕生にとって、インドすなわちサンスクリット
語の寄与も重要で、仏教の流れも無視できない。
サンスクリット語は、日本語、中国語と違って、
インド・ヨーロッパ語族に属す。表音式表記の
言語である。仏教経典のサンスクリット語から中国語
への「漢訳」が行われた。バイリンガルの人々が
行った。シルクロード中継地点に住むトルコ・ウィグル
系の人々である。その漢訳は、サンスクリット語の
音を漢字にあてはめて訳に代えるやり方であった。
つまり漢語で意訳することを避けたのであった。
これは万葉仮名の宛字による日本語の表記方式
である。中国は、政治制度や倫理において古代の
我が国に大きな影響を与えた。とともに言語においても
日本人は仏教経典を通して、漢語の持つ表意性と
サンスクリット語の持つ表音性を柔軟に使いこなす
技術を学び、「日本語による国家」を作る道を進み
始めたと言える。
山口さんの本からです・・・・
漢字が伝来して以降、日本人は乾いたスポンジが
水を吸うように、漢字や漢文の技術を取得していったと
思われる。日本人は中国、朝鮮半島との交流が
始まった古代からずっと、第二次世界大戦が終わ
るまで、漢文ないし漢文訓読体を公文書の
書式として使ってきた。現在残っている、日本式の
漢文の先駆けとなって流布したもっとも有名なもの
は、604年に書かれた聖徳太子による「十七条憲法」
であろう。「論語」(=東アジアに在って、政治のみな
らず人倫の規範を説いた書物と解せられる。したがって
国家のシステムの模範とされる儒教のテキスト)と
「千字文」(単なる漢字習得のテキストにとどまらず
儒教によって構築された宇宙全体を包括し、しかも
同時にこの世を輪廻の一片と見る仏教思想を
伝えるテキスト)に代表される中国六朝時代の思想を
反映し、しかも日本的な咀嚼がなされていると
見ることができる。これは、中国から「書き言葉」
として伝来した漢文を日本的にアレンジしただけ
ではなかった。漢字を通してもたらされた儒教と
仏教の思想を、日本人が理解しやすいような
かたちで埋め込んである。これが著された
ころの東アジアの国際情勢は緊迫していた。
開戦間近という情勢を海の向こうに見据えて
制定された「十七条憲法」は、中央集権化を
進めることで政権を安定化させ、さらに、国家
としての独立を保とうとする意味でも重要であった。
この中央集権化という国家戦略は、聖徳太子の
作り上げたシステムを踏襲して押し進められた。
701年の「大宝律令」はその結実ではないか。
これによって国家体制は確定し、さらに統一
国家としての独立性を完全にするべく、一層の
細かな国際情勢の情報収集が必要となる。
さらにそれらの情報を踏まえた内政における
新しい制度施行も重要な課題となって来る。
この時代の日本語状況を物語るのが大伴家持
である。一般には万葉歌人として、もしくは
万葉集編纂者として有名であるが、祖父安麻呂、
父旅人と共に政治家として活躍している。官位
剥奪、埋葬不許可の扱いを受けているのである。
彼が政治的人間でもあり、同時に漢文の教養を
広く持つ人で、笠女郎(かさのいらつめ)と
恋いの歌をやりとするなど、日本語ならでの
言葉遊びも繰り広げている文化人であるという
ことの意味は深い。つまり、中国からもたらされた
漢字を使って、日本人はこの奈良時代までに、
心の襞をも十分にあらわし得るような日本語の
表現を作り出すことに成功していたのである。
一口に、国風文化 とは言っても、国粋主義的な
思想潮流を考えるのは、あまりに一面的ではないか、
とも考えさせられる。聖徳太子や蘇我馬子、
天智天皇や中臣鎌足、などの時代から、
日本国や日本人の意識をどのように具体化するか
に取り組む時代へ移り変わってきた。そのとき、
王朝貴族とその政治が、治めるべき領土と民を
本当に治めていたのか、その実態が政治に
値するものだったのか、未熟なところはどこで、
問題は何であったか、・・・・・と歴史を見る目を
意識する所に立ったように感じる。
新潮新書 244 山口謠司さんの
「日本語の奇跡
<アイウエオ>と<いろは>の発明」
2007年12月発行
を読みました。だいぶ前に買っていたのですが、
読んでいなかったようです。ふと本棚にあるのを
見つけたのです。以前には探すべきものを持って
いなかったためでしょう、さして面白く感じなかった
のでしょうね。はじめの方で挫折してしまったよう
ですが、今回読んでみるとたいへん面白く感じ
ました。一気に読んでしまいましたね。でも、
「我が国の歴史や文学を学ぶというのは、自分が
拠って立つところを知るということに目的があろう。
世界の最先端の知識や技術を古代からずっと
受け入れながら自国の文化を創って来た日本。
その背景には様々な文化を受け入れ、そして
咀嚼することを可能にする非常に柔軟な「日本語」
という言語環境があったのである。」
という言い方には、少しだけですが、違和感を感じます。
原因と結果、つまり因果関係が逆転しているように
感じてしまうのですが・・・・・・・。
私の違和感はともかくとして・・・・・
せんだって新聞(朝日新聞朝刊ひにちは?)に
源氏物語を紫式部が書いたときの平仮名は
こんな文字だったかとの記事が在りました。
紙切れの年代測定の結果だそうです(もっとも
測定は紙切れのもので、書かれた文字のもので
はないとの批判も載っていましたが。)
そして当時、物語が「大荒木の森の草より繁く、
荒磯海の浜の真砂よりも多く」書かれているが、
それらは、「木草山川鳥獣魚虫など名づけたるは
もの言はぬものにもの言はせ、情けなきものに
情けをつけた」物語や、軽佻浮薄な恋愛物語
ばかりだという。というものです。そして、道綱母の
蜻蛉日記については、自らの人生を、日記という形で
表現したと書いています。結論として、時代は
「古物語」では描きえなかった、今を生きる
人々の喜びや悲しみを描く、新しい文学を要求
していました。まさに、そのような時代に書かれたのが
「うつほ物語」なのです。わが国の長編物語の世界を
切り拓いたのは「うつほ物語」です。これが
書かれたことによって、「源氏物語」が成立した
と言っても過言ではないと思います。
と書いています。
このビギナーズ・クラシックスは、抄録です。
話の筋をたどることに偏っていますから、作品を
味わう、理解する、ということではだいぶ
不足するでしょうが、読んで面白かったです。
琴を巡る不思議な話です。ペルシャにまで行って
手に入れた琴が活躍するのです。なかでも
面白いのは、仲忠(主人公清原俊蔭の娘が
生んだ藤原兼雅の子)と嵯峨の院のご落胤
源凉(みなもとのすずし)のどちらが琴の名手か
という論争が当時行われたということですね。
小説を読んで、誰が好きと言い合うとか、名所
旧跡が生まれるなんてのは、小説がいかに
評判を呼んだかを示しますから。
平安中期、藤原公任の「公任集」には
円融天皇のとき宮中で両者の優劣論争が
あったことが記されているらしい。また
「枕草子」には、中宮定子のもとで論争があり
定子が仲忠非難をすると、清少納言は
仲忠の腕前を誉め、さらに結婚相手では
仲忠は帝の娘と結婚したが、凉の相手は
帝の娘ではないと弁護している。
源氏物語を生む背景は、ずいぶんと世の中の
発展があり、そしてまた政治の爛熟(という表現
の適否は詮索しないこととして)があったように
感じられる。結婚制度の変革も起こりつつあった
のだろう。生き生きと人々は生きていた、などという
興ざめな借り物の表現はさておいて、退屈な
王朝生活に咲いたあだ花というようなものではない
なあと、私は興味が増しているのですが。
解説(岩波文庫 今西祐一郎校注 「蜻蛉日記」の解説)
は続きます。
もっともこのような意識、つまり緩やかな日記意識は、
家集を編むほどの歌人たちには、あるいはまた家集
を享受する側においても、ある程度共有されて
いたであろう。道綱母は蜻蛉日記上中下三巻を通して
歌を主とした文章ばかりを書いたわけではない。多くの
歌を擁する上巻はじめのほうでさえ、はやくも自作の歌を
交えぬ文章が見られ、上巻後半部の母の死、兼家の大病、
初瀬詣でなどの文章を経て、中巻に入るとさらに歌は減り、
それに反比例するかのように夫兼家との噛み合わぬ胸中の
思いを綴る文や唐崎、石山への旅の記事が次から次へと
紡ぎ出されてゆく。その一方で興味をそそられるのは、
中巻から下巻にかけて、時折顔をのぞかせる、日並な
記事である。上巻には見られなかった、このような日単位の
記事は、蜻蛉日記の出発時には無縁のものではないか。
きっとはじめは手元に歌稿に頼って綴られたが、書き継ぐほどに
変貌を遂げたということではないか。下巻になると、老後を案じた
道綱母が養女を取る経緯の記事があるが、自身が交渉の
場に出向いたのではなかった。しかしその文章はその場を
見てきたように語る。すなわち一人称の視点が原則のはずが、
特別顕著な超越的視点をもって描かれ、物語的に構成され
ている。これも道綱母の試行の手探りの一つであったろう。
蜻蛉日記に道綱母の人生における手探りや模索が書かれ
ているということは、すでに大方の認めるところ。だがそれと
同時に、書くことの手探りや模索に満ちた作品であるという
ことも劣らず重要な事柄であり、文学史上の大きな魅力である。
仮名散文の成立という平安時代文学史の達成を、蜻蛉日記は
その個体発生の過程で期せずして試みた作品であった。
ついつい興味にひかれて、人の知識に威を借りてしまい
ました。文学史なんかにちらとでも入るつもりはないのですが。
まあ、いまさらの感もありますので、開き直って・・・・・・。
角川ソフィア文庫A24 ビギナーズ・クラシックス
日本の古典 「うつほ物語」宮城秀之編 の解説を
見てみますと、蜻蛉日記と同じ時代に、源為憲(?〜
1011)が985年に、冷泉天皇の第二皇女 尊子
内親王のために書いた仏教説話集「三宝絵詞」の
序文が紹介してあります。すなわち、仏法の妨げに
なるものとして、碁と琴についで物語をあげている。
この伊勢(の御)なる人は、自分の恋の遍歴を「伊勢集」冒頭に
歌と共に書き記しているが、この家集とともに平安時代の歌人
にたいへんおおきな影響を与えたとのことである。伊勢集冒頭
の書き出しが
「いづれの御時にかありけむ、おほ宮す
所ときこえける御つぼねに、・・・」
とあるが、これは源氏物語の書き出しと同じであろう。
伊勢と似た中流貴族の出(藤原倫寧=陸奥守、の娘)
である道綱母が蜻蛉日記の上巻前半部の記事構成を
伊勢集冒頭部に似せたのもこの影響の現れであるとされる。
さて、伊勢集から多くを学んだ道綱母であるが、伊勢集は
あくまで家集の域を越えない。しかし蜻蛉日記は、日記を
明確に意識をしている。さりながら、男日記ではないと
する意識も強いはず。ではその日記意識は?
解説によると、それは、歌をそれが詠まれた抒情の時々に
放置せず、みずからの人生を再構成する一齣として位置付け
ようとする歴史意識とでもいうべきものに、道綱母が
他の歌人たちよりも敏感だったからではあるまいか。(や
はり独特の言葉使いではないでしょうか。もう一つしっ
かりした意味が理解できないのですが・・・・)となります。
伊勢集の冒頭部が時代はうんと下って江戸時代に、
伊勢日記とも呼ばれたことや、在原業平の歌を柱とする
歌文が伊勢物語と呼ばれていたが、在五中将の日記
の名前をももっていたことを考え合わせると、歌あるいは
詠歌が日記と近い関係にあったことも推察できるようです。
ただ、伊勢や業平、いや伊勢集や伊勢物語を書いた
著者・編者は決して日記とは呼ばなかったはずです。
道綱母は(身の上の)日記と意識したのです。蜻蛉日記の
冒頭部分を見てみます・・・。
「かくありし時すぎて、世中に いと ものはかなく、とにもかくにも
つかで 世にふる人(自分自身のこと)ありけり。・・・・・・・
かうものの 要にもあらであるも ことわりと 思ひつゝ、たゞ臥し
起き あかしくらすまゝに 世中に おほかる古物語の はしなどを
見れば、世に おほかる そらごとだにあり、人にもあらぬ
身のうへまで 書き日記して めずらしきさまにも ありなん、
天下の人の 品たかきやと 問はんためしにもせよかし、
とおぼゆるも、過ぎにし 年月ごろのことも おぼつかなかり
ければ、さても ありぬべきことなん おほかりける。」
なんですが、なかなかの器量ではないかと感じますね。
なかなかの迫力を感じます。
OB、OGのみなさん参加していただいてありがとうございます。
広瀬さんありがとうございます。お元気ですね。
木村さんありがとう。平田さんもありがとう。
杉山部長ご苦労様です、花粉症にもめげずお元気ですね。
藤原君、小林君、忙しいだろうに、ありがとう。
安藤君が元気で頑張りました。安藤・中村組三年前を
思い出しました。逢見・小山田組にファイナルで
勝ちました。逢見にはよい練習になったと思います。
最終戦は、小柳・赤木組対安藤・中村組でした。
安藤が第1ゲーム二本赤木のサイドを抜いて、
第2ゲーム目も最初に赤木のサイドを抜いて、
このペースで試合を進めるのかとびっくりしましたが、
そうでもなかったようです。折角だから、このペースで
やってみたらよかったですね。赤木がどう反応したか、
小柳が続けることができたか、ちょっと見て見たかった
のですが。
石川君のストロークがよかった。本人も予想を上回った
のではないか。花尾君もなかなかのラケット捌きでした。
器用なところを何度も見せていました。前衛に
中村さんと中瀬君、さらには宮田さんと、OBの前衛陣は
揃っていました。田部井、八木,榊山、吉永では
対応できない迫力が在りましたね。
後衛に、林君と岩崎君、前衛に富岡君が加われば、
現役が少し受けに回ることになったかも知れませんね。
現役のテニスは、まだ調整も済んでいない段階ですが、
もっと意識して段階を踏んで今年のテニスの水準に
もって行かないとまともな戦いはできません。こころして
合宿をしてきて欲しい。特に、田部井、梅原、北谷、
矢守、榊山、吉永はからだ全体の使い方、鋭さ、適確さ、
狙ってプレーすること、戦法を実行するという意識、
スポーツとしてのテニスをする意欲を大いに燃えさせて
欲しい。テニス感覚、テニス観、テニス欲をもっと
もっと本格化してコートに立ち、ボールを打って欲しい。
自分と同じような条件の相手と戦う事がもっとも
予想が立てやすく戦いやすいでしょう。条件の
違う相手は、未知の部分が多くて確実な勝利を
目指すにはよほどの心構えが必要になると
考えられませんか。
同じ条件で戦う相手などいないでしょう。
結局各人が自分をいかに冷静に見ることが
できるかから始めなくてはならないのです。
独善の罠をいかにかいくぐるか。慣れの
汚染をいかに拭うか。思いこみや無知の
断崖をいかに超えるか。知らない事への
恐怖と知る事の不可能を乗り越える勇気
がどうしても見えてきます。どんなに自己の
無力を知っても、創造するしか前には
進めない。誰も担いで行っては呉れな
いのです。
そのような仲間がいるという確信を持てれば
仲間の中での競い合い、切磋琢磨は
希望の大地となるでしょう。育った希望が
もたらす果実の美味さは、生きる喜びです。
創造的に!(単に思いつきをやるだけ。
気が移ろいやすいのだ。)
合理的に!(要領ばかりに走る。強いものには
借りてきた猫になる。強いものに勝つためには、
合理的でなくては。)
機敏に!(乱暴なだけ。大人しいからと、
脅したり恐怖感を与えたりするようでは・・・・)
どうして上手と、上手な人と、強い人と、
試合をしたいのか。こちらの必死に応えて
くれるからではないか。上手は受けてしまうのだ。
そして、どのような試合でも偶然が起こる。
緊迫すればするほど、起こる偶然はなんとも
魅力的なのだ。予想もしない偶然に
わくわくするような喜びを感じたい、これが
上手い、の実際の在り様なのだ。予定の行動
で終わってしまうような試合はゲームではない。
スポーツではない。どんな試合も、勝ちを目指すなら
どれほどの差を感じようと、全力で戦うのだ。
偶然の魅力にとりつかれて・・・・・・・・・・・・・。
テニスを通じてですが、人をよく観察し、その
特徴を適確に掴むことに意を注ぐ事が、なにより
必要のように思います。人を見ずに、
球だけ見てテニスをする、そのような機械人間には
テニスは、スポーツはできない。と思いますし、
としなくてはならない、でなければ面白くない。
身体的能力もむろん大事な事ですが、心の中が
いっそう大事である。その人を動かす原因、因縁
をこそ見つけることが、その人のテニスを理解する
なによりも効果のある事だとするのですね。
テニススクールが盛んですから、コーチや
インストラクターの技術が第一に注目されますが、
経済として成り立つ対象に対しては、それこそ
資格云々が摂り沙汰されるでしょうが、テニスに
憧れを持って取り組む若人には、資格云々ではなく、
環境であり刺激である、なによりも創造的な
人のつながりのなかで生活することではないか
と思います。
人をよく見るという事では、見ることを指導者に
頼るという戦い方があります。高校や中学校
では、当然とされている戦い方でもあるでしょう。
監督の指揮のもとの戦いとは違います。
監督の命令の通りに戦う場合には、ほとんど
同じになるでしょうね。監督の狙いを理解せずに
命令だからと従う場合の事です。このような
見ることを自分では放擲している場合は
テニスとは認めないというのが私の考え方です。
このように言うと、非常に強い主張をしている
ように解する人もいるかもしれませんが、テニス
パーソンには、実に当然のごく初歩的な
原則をわざわざ言葉に出していったに過ぎないと
むしろ呆れられるはずです。創造性を
否定するようなやり方はとることがないのです。
条件をできるだけ整えようとする意欲はなくす
ものではありません。しかし、条件の不備を
上達しない理由や負ける理由にすることは
創造性とは逆方向の発想です。人を見ない
発想です。条件の不備が、相手に分からなければ、
不備にはならないし、相手にその不備を利用
される懸念があれば、対策を立て易いと、有利な
条件とすることを考えるべきです。
計画通りに練習するから、毎日連続すると疲れてしまう。
休みを適度に、いやきちんと十分に摂らないことには
健康を害することとなる。できれば、全天候型の
ドームコートであればよいがとなろう。コート整備も
手軽なものだ。われわれの時代なら、春先ともなれば
コート整備を入念に行いたいと体力の限りを尽くした
ものだ。自然、テニス以外の労働を、下手なものほど
(テニスの練習に時間を割きたいのは下手を意識する
者の思いである)練習時間を削られると迷惑と感じて
苦痛であったのではないか。実際は上下へだては
なかったと思う。毎日のコート整備も、練習前に白線を
石灰で引く仕事が欠かせなかった。現在でも余り変
わらないのは、雨で貯まった水溜まりを無くす「お水
取り」ではないか。もっともコートをもっと費用を掛けて
作っておけば水が溜まることはないと学生たちは
ちょっと迷惑に感じているかもしれないが。
練習環境は時代時代で変わるものと、この歳になって
分かる事であった。用具の変化も想像を超えている。
ボールだけは余り変わっていないかとも思うが、
どうも学生のときとは違うなあとの思いも拭えない。
そうそう、だいたいがルールだって変わっている。
こんなにもいろいろ変わっているが、(こういう言い方は
、お前らしい強引なものだ!とのそしりをいただく
だろうが)創造的にテニスに取り組む事がテニスの
やり方、楽しみ方だとの思いは不変ではないか、と
考えているのです。
ソフトテニス、いや軟式庭球の達人、名人、楽人
(テニす愛好の人=愛好が身体で顕せる人)を
知ると、本当に並々ならぬ創造性を思い知ります。
そして人に対する関心の高さ、したがって辛らつさ
も相当なものです。しかしエレガントでもあります。
えげつなさを脅しのように見せつけるということは
ありません。嫌味にならない限りの節度を持って
技術の可能な限り厳しく追い込みます。判断の
あやふやや独り善がりへのからかいはは痛快で
さえあります。苦しい練習に耐えた、忍耐だけを
てこにするような、修身や身分制のもとの特別扱い
を要求するようなプレーヤーにはお目にかかった
事はありません。逆ですね。控えめで謙虚な人
となりです。がことプレーとなると直接的、間接的、
育成的、いじめ的、・・・・持てる技術を使って
実に現実的に対してきます。厳しさがあります。
この厳しさを理解しないと相手にしてもらえない
という恐怖感を与えられます。こういう特徴は
先達が指導者となって不特定多数を集めて
学校で教えるということでは身につかないと私は
思っています。各人が自分を意欲的につくりあ
げてきた結果であろうとおもいます。つまり、各人
の創造性の賜物と考えているのです。
誰もが何らかの憧れから始まるテニス像が作られている
ように思うのだが、どうだろう。
むろん大学から始めるという、いわゆる初心者では、
このような決めつけは、迷惑なものであろう。
したがって、このように誰にもあるであろうと書いたから
といって、特段の意味を持つものと考えないでいただきたい。
(なんという無責任な!とは思うが。でも、まあ、
ちょっとくらいは、初心者ではあっても、俺にも、私にも、
できるのではないか、やって見たい、と思わせる
魅力が感じられたという思いがあるはずだ!という
意味を汲んでもらえれば、という気持ちもあるのですが)
とにかく何らかの像があってもなくても、いやおぼろげであれ
明確であれ、実際の上達過程では、現実の今をどのように
練習するかをしっかり考えておかねばならない。
「ねばならぬ」表現は堅苦しいものだが、義務や
行儀作法の意味で言っているのではないつもりです。
自由意志に基づいて自ら進んでやると言うことは
かくなるのではないかと、言わずもがなを言っている
に過ぎないつもりです。つまり、策が必要だと言って、
どこかから上手い策を手に入れよう、どこかに転がっている
(では表現が悪い。存在しているはずだから、
少ない費用で何とか手に入れよう)はずだから、と
できあがった策を求めるのでは、目的にかなうだろうか?
と言いたいのです。与えられる情報にどこまで意味
があるのか?というより、本当に活かして使えるのか?
と考えてしまうからです。求める情報、もぎ取る情報、
つぎはぎでも作り上げる情報こそが役に立つのではないか。
役に立つことを保証された情報を求めるという
態度に、情報を活かす要素の不足を感じるのですが。
こういう議論は、年齢と世代の差が大きいと、頓珍漢になって
話しが噛み合わないことも多いのではないかと恐れない
わけでは無い。といって、私のように才が余りに少ない
のでは、議論しない方がましともなる。どうかOB・OG
諸氏の、特に若手の皆さんのお力をお願いしたいと
すがる思いです。みなさんのご厚意を当てにして、
拙い議論を止めずに・・・・・・
たとえば、この正規練習計画である。「2練1休」制
であるが、私の頃は、少しでも雨気があるとガットが
切れてしまうので、練習を休むこととなる。いや、
ボールを打たない練習に切りかえることを考える。
したがって、毎日練習と計画する。実際は雨が
よく降る(雨模様も含めて)ので、毎日練習する
ことにはならない。しかし、計画では毎日練習
だから、実情を知らなければ、ちょっとたいへんな
活動となろう。いまの学生は、雨模様は何のその、
たとえ雨が降っても怖れる事はない。したがって
雨中テニスで気をつけることは、ボールコントロールと
風邪などをひかないようにする注意である。