これらの立証については・・・・・・
第1の論点については
「人間の幸福は三つの要素、すなわち、活動、心身の快、
および、無為(怠惰)の混合したものものであるようです。
むろん、それら三要素の混合比率は人それぞれの
気質に応じて当然さまざまです。しかし、それら三要素の
どれか一つでももしそれが完全に欠けるということになれば
それは必ずこの混合物の味を多少とも損なうことになります。
なるほど、無為とか休息ということそれ自体は幸福の享受に
とりさほどの役割は果たさぬかに見うけられます。ですが、
それらが果たす役割は睡眠に似ています。つまり、人間
的自然の弱さに対する一種のお目こぼしとして無為や
休息は必要不可欠です。活動に専念する場合でも心身の
快を求める場合でも、もし活動や快が中断なく続くならば、
人間的自然はそれに耐えられません。しかし、この時折の
休息も、しばしの間は快くとも、長く続きすぎると、幸福
の享受を完全に不可能にしてしまう無気力と無感動とを
人の心に生ぜしめます。幸福のそれら三要素のどれに
人々が心が向かう場合にも、教育と慣習と先人の手本
とが大きな影響力を持っています。ですから、教育や
慣習や範例が活動と心身の快とに向かう好尚を助長
する場合、それらの持つ影響力はその限り人間の
幸福にとり好都合であるということは承認されて
然るべきです。時代精神は技芸の全分野に対して
影響力を持ちます。また、人々の心は、ひとたび
怠惰の眠りから呼び覚まされ、活発に活動する
ようになると、あらゆる方面にその目を向け、
あらゆる技術、あらゆる学問に進歩と発達を
もたらします。それらの洗練された技芸がさらに
洗練の度を増すようになればなるほど、人々は
それだけいっそう社交性を持つようになります。
学問によってその心を豊かにされ社交談論の
ための素材も豊富に持ち合わせるようになるとき、
なおかつ人々が孤立の生活に満足し、無知蒙昧
な国民に特有のあのよそよそしい態度を守りながら
同朋市民との暮らしを続けるなどということはあり
得べくもありません。生産への熱意と知識に対する
欲求と人間らしい感情とは互いに断ちがたい鎖で
つなぎ合わされており、理論と経験とのいずれの
面からしても、それら三者は洗練の度のより高い時代、
普通の表現を用いるならば、luxuryの度のより
高い時代に固有の特質に他なりません。
話しはふらついている。が、いつものことだが、
ふらついたままで、どこかへ進んで行く。
「市民の国について」の中に、つぎのようなものもある。
「技芸の洗練と進歩についてOn Refinement in the
Arts」です。
luxuryは確定した意味を持たぬ言葉であり、それは
悪い意味にも良い意味にも解することができます。
・・・・luxuryにかんしてはその他の道徳上の問題の
場合と同じく是非善悪の境界をはっきりと定めることは
不可能です。五感に関する満足はいかなる感官の
満足であれ、また、食事、飲み物、あるいは、衣服に
関する喜びはいかなる喜びの享受であれ、それ自体
悪徳であると想像することは、宗教的熱狂のもたらす
例の乱心で逆上しているのでない限り、まともな
人間の頭には、到底受け付けようもない考えです。
luxuryに対してはわれわれはそれを罪のない
ものと見なし得るか、それとも、非難さるべきものと
見なし得るかのいずれかです。ですから、luxuryに
かんしこれまで執拗に主張されてきている法外な
見解に接するとき人は一驚させられます。というのは、
自由思想家的な立場に立つ人々は悪徳に属する
luxuryをさえ誉めそやし、それを社会にとりこの上なく
有益であるとしているのに引き換え、厳格主義の
道徳に立つ人々はいささかも罪でないようなluxury
をさえ非難し、市民本位の政府にありがちの
腐敗や無秩序や党争は挙げてluxuryに起因する
としているからです。われわれはこのエッセイにおいて
つぎの2点を証明することにより、それらの両極端の
見解の誤りを正したいと思います。すなわち、
先ず第一に、生活洗練(refinement つまりluxur
y)
の存する時代はもっとも幸福な時代であるとともに
最も有徳な時代であることを証明し、ついでluxury
が罪のないものではなくなる場合にはつねに、それは
有益なものでもなくなること、そして、度を過ごすとき
それは国家にとり、最も有害なものでは多分ないとは
言え、有害であるということを証明することにより。
いや、そういう話しの前に、通常でも競い合い対立する
勢力は存在する。これをまったく否定するようでは世の中は
成立しないのではないか。行儀作法をいくら躾ても、湧きあがる欲望
に
直進する者をまったく否定するのでは、通常ではないとすべき
でないか。若者はやはり焦るものだ。調和のとれた態度は
なかなかとり難いものだ。そのかわり、潔さと再度の挑戦を
待つ余裕がある。爽やかさを魅力として持つことができる。
年寄りは、失敗と挫折を乗り越えてきた経験の豊かさと
危険を察知する賢さを誇ることができる。わずかの成功を
誇大に表現し、過失のない万能ぶりを公言する恥知らず
なゴーマンぶりは、その裏面の真実ではあろうが。
イギリス=英国はケルトに始まりローマ帝国を誇る気持ちがある
のではないか。ならば我が方にも、縄文時代に始まり
邪馬台国を誇る気持ちがある。ゲルマンの進出があると
言うのなら、騎馬民族の進出を言うだろう。ノルマンや
デーン人の征服には、白村江や元寇をあてるかもしれない。
英仏戦争には幾度かの朝鮮出兵があるだろう。
アイルランド、スコットランドとの対立は
えぞや、えみしの征服をあてようか。いやもっと前だが
大国主=大物主の征服があげられるかもしれない。
さすがに植民地の独立は対応するものがないが。
東の日本、西の英国。地球は丸いから、東の英国、西の日本とも
言うべきかもしれない。煬帝のよりは、問題は簡単なのだ。
イングランドには革命がある。日本には、天皇殺害や権力者殺害は
あるが・・・・。信長の天下統一、光秀謀反は革命なのか・・・・。
関ケ原や大阪冬の陣・夏の陣は・・・。
特にイングランドと比較することに意味を見つけようというのではな
い。
英国の哲学が、自国の歴史をどのように踏まえて論じるのか、
を見ながらその主張を眺めて見たいと思ったわけだ。この観点から
見ていると、われわれの方の歴史の見方が、もう一つ
明確でないと見えてくると私は思う。明確でないとは、主張が
明確でないという意味だ。明確な主張とは、狙いがはっきりして
いる主張のことだ。
このように言い表わすと、「狙い」は明確で燦燦と輝いてい
るではないかと主張する声が大きく騒がしく聞こえてくる
だろうなあと想像したくなる。
(まだまだ夏のテニスには道はるか
ではあるが、陸奥に遠征するために
大いに心を磨いて欲しい)
与えられるものが学問である。学問でなくてはならない。
むろんそうだ。与えられたもののどこが学問なのか、もう一歩
踏みこんで聞く。知識である。ならば、人は必ずしも必要なかろう。
本でも良かろう、放送でも良かろう、インターネツトでも良い。
確かに良い。が何故なのか。知識だから。問題を解く事ができれば
良いのだ。じゃあ、問題集を集めるか、解答集を探すか。
知識とは、文字なのか、文章なのか。法は知識か。
そう言えば、鳩山さん(弟さん)は死刑を自動化するような
話をわざわざ公言したことがあった。機械でも良いのか。
コモンローはおかしいのではないか?
融通無碍なんてのは、知識のない時代のことか。学問がないから
ありえたことなのか。そう言えば、漢字を知らないと非難されること
が
あるが、知識がない、学問がないと言うことなら理屈は通っている。
哲学が難解と敬遠されることが不思議ではない。しかし
哲学は不思議を感じることから始まることを思えば、どうも
不思議なことだ。不思議だから、不思議を感じるから
考えるのであって、考える内容が難解なはずがない。
不思議を考えるという行為が通常生活ではなかなか
実行できないだけであろう。それを難解と揶揄するのであろう。
そこを理解しないで、追従するから難解が内容だと勘違いした
のだ。通常では、判断は的確に早く決定しなくてはならない。
迷うようなら、とにかくどちらかに決断すべきだ。行くか戻るか、
まずいと分かったらその時点で転回するしか無い。拙速でもよい、
となるのであろう。
これが前提なら、つまりお互い様なら、譲り合うなら、明るく
愉快に暮らそうではないか。でも、そうせずに、機会到来とばかりに
つけ込む者が出てきたらどうするのだ。譲り合うことをせず、
両立することを認めず、蹴落とすことを狙っている者の存在を
どうするのだ。
社会的な利害、権力に対する権利、および財産に対する権利、
これら3つに関する輿論が、あらゆる政府と、そして、少数者
の多数者に対する権威そのものとの基礎です。
なるほど、たとえば、利己、恐怖、思慕といった原理は、これら
の輿論の持つ力を増したり、その働きを規定、限定、変更し
たりします。しかしそれにしても、それだけでは、何の作用力
も持てないどころか、輿論の作用力が先ず初めにあることが
前提になっているといえます。したがって、それらは、政府
の二次的原理であって、一次的原理であるとは考えられて
はなりません。
ブリテンの政体を論じた著作家はいままでのところ大抵、
大ブリテンの全平民を代表するのは下院であるから、上下
両院をはかりにかければ、下院の持つ重みは、それが
代表するすべての平民の財産と権力とに比例すると
考えてきています。しかし、このような原理の正しさが
絶対的であるなどとは考えてはなりません。なるほど国王は、
議員選挙の際に、国民全体に対して大きな作用力を
持っています。この作用力に変化が起きれば、共和政体
への移行も可能になるだろうと考えないわけにはいきません。
なぜなら、平民階級というものは、ローマの諸部族のように、
集まって一団となるときには、政治に不向きなものですが、
しかし、分散させられて小さな集団となるときには、道理と秩序
とをいっそう受け入れやすくなり、人民の動向が持つ力は
大半阻止され、したがって、社会的な利益が、ある程度の秩序と
一貫性を持って、追求されることになりますから。
しかし、大ブリテンにおいて起こりそうにもない、そしてまた、
トーリーもウィッグもその目的として立てないような政体について、
これ以上推論するのは無益です。わたくしたちは、前々から
続いている政体を、できるだけ大事にし、そして、改良して
行くことにしましょう。
と書いて論を終えています。・・・・・
どういう狙いを持っているのか、私は明確に掴めませんが、
新聞や電波にのって流れてくる論説に比べて、
時代背景は別にして、耳を傾けて見たくなる内容だと
感じます。
さて、学問をするために大学にいる、いろいろな理由
もあるでしょうが、学問をする、学問を身につける、
学歴を持つ、このような目的が大学にいる理由の
はずだ。では学問とはなにか?
いよいよ梅雨の鬱陶しさが盛んです。
・・・・・・
話しは横へ逸れる。狙いについて考えているとそうなってしまった。
デイヴィッド・ヒュームは「人性論」を書いたが、不評のため
無視することにしたらしい。1752年Political Dis
courseとして
いくつかの政治論を発表する。岩波文庫に小松茂夫訳で
収録されている。「市民の国について」である。これには1742年
から
1777年までのエセーも含まれている。ピューリタン革命、
王政復古、名誉革命を経て、英仏植民地戦争が始まり、
スコットランドの合同で大ブリテン王国が生まれ、アメリカ13州
が独立を宣言するのが1776年である。この年にはまた
アダム・スミスが「国富論」を出版した。ワットが蒸気機関を
改良したのは1769年である。産業革命が一方で進行していた。
たとえば「政府の第一原理について」には、
哲学的な眼で社会現象を考察する人にとり、多数者が少数者に
よりやすやすと支配されているあのたやすさと、人々が、彼らの
意見や情念を素直に彼らの支配者のそれに従わせているあの
一も二もない盲目的な素直さほど驚異的に思われるものは
ありません。このような驚異的な現象を生み出している原因を
たずねてみるとき、実力はいつも被支配者の側にあるのですから、
支配者側が支柱と頼むものが輿論以外にはないということが
分かるでしょう。
輿論には二種類、すなわち利害に関する輿論と権利に
関する輿論とがあります。権利には、二種、すなわち権力に
対する権利と財産に対する権利があります。前者の権利は、
前々からある政府に対して愛着を持つという国民感情のことで、
これが権利に対する輿論を生み出し、公的な正義を守る
場合には、人類はいつも、生命と富を、平気で、湯水の
ように使っているのです。党争の渦中にあるとき、ほとびとは、
各自の党派につくそうとして恥もためらいもなしに、名誉と
徳性に関する一切の絆を、ともすれば、無視してしまうものです。
ところが、党争の争点が権利や原理に関連してくると、正義と
衡平について、これ以上激しい執念深さとこれ以上決然
とした分別とを人々が示すことは、まず、ありません。
二人に限りません。みんな狙いをしっかり持ちます。
最終目標と言う意味ではありません。ほんの出発点
でも良いのです。大切なのは、本当の出発点でなくては
ならないと言うことです。出発点に限りません。要は
本当に役に立つ、勝つテニスに直結した狙いでないと
狙いとはならないと言うことなのです。
決して難しいことを言っているのではありません。でも
たいへん難しいことです。監督やコーチがいくら言っても
分かってくれないとこぼすことのある要点ですね。
一般的には。でも名監督や名コーチは決して
そのようなことはこぼさないように思いますけれどもね。
いえ私はそのような名○○ではありませんから、実際のところは
まるで不案内と白状するしかありませんが・・・・・・・・・・。
狙いとは、憧れと言っても良いかもしれませんね。
こうやって勝つ!というイメージが明瞭に持てれば
よいのです。どうやってこのイメージを持ったかと
振りかえれば、かつて見たある選手のテニスが
原因である、つまりはテニスをやりたく思った
原因ですね。つまりは憧れです。こうやって勝つのか?
あんな風に勝って誇らしげにしたいものだ!という
望みと、できるのではないかという可能性の実感、
あるいはもっと上を行く夢をも感じるかもしれませんね。
なにができるか、どこまでできるか、できた時の快感、
がふつふつとわき上がって来る。顔が紅潮してくる
思い。これが原動力です。これがあるから、よそ目には
どれほど不思議に見えても人は没頭する。
子供の意欲とはそうして開発されるのではないかと
私は思っているのです。この意欲の開発のされ方
は青年のものでもあります。そして成人のもの、年寄りの
ものでもあると思いたいのです・・・・・。
勇気を持たねばなりません。いえ、そんなに恐ろしいことを
試みるわけではないのですが、どこか他の目を怖れる・恥じる
意識が出るようでは、そんなことにかかずらわるのでは
とても狙いは手に入らない、率直に真っ直ぐ手を出さなければ、
そしてどんな困難にも打ち勝つには、自分の強い欲に
直接的に答える意欲を持たなければとても無理だろう、
このような気持ちは、勇気ではないか、こんな説明
なんですが・・・・・・・・。
7月です。夏のテニスへまっしぐらです。
後衛では吉永、前衛では矢守。この二人が象徴となります。
つまり力強くなれば進歩です。ひ弱さが感じられる間は
まだ前進が確定していないのです。二人にはどうしても
頑張ってもらわねばなりません。
テニスは技術です。この技術をどうやって修得するか。
良いコーチに恵まれて、豊富な練習量に裏づけされて、
上達するのです。恵まれた環境とあたたい声援に
本人の強い意欲、粘り強い性格、があればかならずや
周囲の期待に見事に応えるでしょう。
というような成功物語は、しかしここでは現実性を
持たないでしょう。いえ、本当はそれほど不可能と
言うわけではないのかもしれませんが、あえて不可能
と言っておく方が却って現実味があるのではないかと
私は思います・・・・・・(ふうっ)
意欲を持つことは、簡単なはずですが、実際には
なかなか難しいです。それが証拠に、声がでませんから。
声が出れば意欲的か?と聞かれると困りますが、
声を聞けば意欲の程は分かります。
違いますか。意欲を聞き取られまいとして、声を出すことを
ためらっているのではないでしょうか?
いつ、どのような条件が充たされれば、声を出す、つまり
意欲を見せることができるのでしょう。どこか
踏ん切りがつかない、で声を出せないのではないでしょうか。
みんな同じではないのです。一人一人違います。
そして、誰かが象徴となりますね。
吉永。どこか秘めたものを感じさせているのですが、
実際のストロークは弱さを感じさせています。
豪球を打つとか、腕力を振るうとか、恐ろしいスピードを
見せるとかがないから弱さを感じるのだという意味では
ありません。テニスの狙いが未だ見えない、把握していない、
あるいは誤解をしている。狙いがしっかりしておれば
かならずそれが見る者に感じられるはずです。それが
ない、これが弱さを感じさせるのです。
矢守もそうです。昨年の秋までは、単に下手と言うだけで、
弱さを感じさせるところはなかったのです。それが
先ごろまでは弱さを感じさせました。ラケットでボールを
操作する技術にどこか負けてしまった、という印象が
強いですね。腕先、手先、指でしかラケットを操作していない、
いやしようとしない、ように見えましたから。技術より先に
ボールをどうしたいのかという狙いを明確に持たなくては
ならないのですが。でも強く抗議するに違いありません。
いえ、しっかり狙いがありますと。ここに誤解が明瞭にな
るのですが、この誤解を説明するのが厄介なのです。
とにかく、難しい問題でした。が、どうやら前進が可能に
なったように感じました。二人がスピードを利用して
非常に鋭いプレーを可能にする見通しが立ったのです。
止まってはだめなのです。動きを利用するのです。
誰よりも速く動けることを最大限利用するテニスをする
のです。柔らかく、ゆったりと、のびやかに、スピード豊かに
鋭く、切れ味鋭く、・・・・なんと言う魅力でしょうか。
逢見が元気に現れました。早速新旧主将対決で
マッチをしていました。また大恵と乱打をしている様子を
私は嬉しく眺めました。ちょっと大恵のストロークが
乱れているので良い刺激になるでしょう。
吉永がやっと力を集中するGストロークを見せてくれました。
短い球や長い球になると、つまり前後に5歩以上走るべき
球になるとまだ力抜けてしまいますが、可能性を見せて
くれたことはうれしいことです。このシュート打ちから
足の長いロビングをいくらでも打てるようになれば後衛になるでしょ
う。
矢守もなんとかスピードを生かしたボールコントロールを
ものにする可能性を見せてくれました。力の弱さ、プレーの
拙さが目立っていましたが、スピードを活かせば、
この弱点は急速に消えうせるでしょう。スマッシュをもう少し
研究する必要がありますが、可能性は見えました。
吉永、矢守はいまやキーパーソンに位置付けられて
しまいます。苦しいでしょうが、期待に応えてもらうしか
打開策はないのです。今日はなんとか可能性が見えた
と私はたいへん嬉しく思いました。
昼を摂って午後練をコートで待っていると
とことこと見なれたご夫人が入って来るではありませんか。
うん?広瀬さん?なんで?
女子の練習があるものと練習に参加するつもりで
出て来てくれたのです。そうか、予報を変えてでも
天気を夏にするわなあ・・・、と日本の気象庁に感謝しました。
折角出て来て、一本も打たずに帰るのでは申し訳ない。
女子の先輩にもテニスをしているOGが存在している
ことを現役にも、男子現役にもしっかり認識していて
もらいたい。乱打の相手をしてもらいました。沢田さんにも
ひと汗かいてもらいました。女子OGがテニスで男子現役
の練習に参加してもらうことができた。嬉しい限りです。
愉快です。楽しいです。
広瀬さんとは、ずいぶん話しをさせてもらいました。
テニスの話しをいろいろ。普段山元さんと
話すようなことをです。流石に現役で続けているだけあって、
私の拙い知識程度では、すべて経験済みで話しが弾みました。
私にはとっても楽しいテニス談義でした。
歳をとったせいか、話し相手になってもらうと、
それだけで嬉しいのでしょうね。
そしてみんなこの2週間、少しずつではありますが、
確実に前進していることが嬉しかったですね。
ただ、もっと求め、もっと表現しないと。
訴える力が弱いです。この夏の暑さに負けてしまいます。
この暑さを跳ね除ける熱いテニス心をコートに
輝かさないと訴えることはできません。
訴えることが、テニスをすることなのです。
夏のテニスは、訴えるテニスです。全日本は
ぎらぎらした熱の塊で戦うのです。
そしてわれわれは、正しいテニスを力を込めて
訴えるのです。印象付けるのです。
真夏の天気でした。予報では午後はいつ降っても
おかしくないとのはずでしたが、かえって青空が
白雲と共にあらわれました。日射はぎらぎらと
容赦のない熱さです。とても堪らず木陰で
練習を見ていました。
なんとか頑張って夏のテニスに取り組んでくれました。
もう少し迫力が出ると良いのですが、もうふた頑張りが必要です。
でもなかなか様になってきました。
特に前衛は、1回生の新鮮さが良い意味で機能していますから、
やる気が直ちに反映します。それと
3回生北谷と矢守が自分を出すことに集中して来ましたから、
しまってきました。残念なのは、小山田が右足先親指を
怪我してしまい昨日今日と練習ができないことです。
江口一人が頑張っていますが、影響は大きいです。
月曜も休んで、火曜から練習ができるかもしれません。
しっかり手当てをして化膿などしないように十分注意を
して欲しいと思います。焦ってはだめですが、直すことも
練習のうちと心得て、なんとか一刻も早く練習に参加することです。
さて今日は本当に楽しい思いをたくさん味わいました。
岩崎君と林くん、沢田さん、花尾くんが出て来てくれました。
練習が締まります。水準が上がります。今日のような
真夏日に炎天下のコートにしっかりテニスをしてもらえると
はすばらしいことです。
岩崎くんは、今日を最後に京都を離れるそうです。いよいよ
社会人として飛び立つのです。うれしいことですね。はなむけに
テニスを同時に進めてくれるよう願いました。
京都選手権大会で、テニスをまとめたのであろう、
予想はしていたのだが、やはりそうであった、と
久しぶりにコートを覗いて思った。
まとめることは、それだけで直ちに咎めるような要素を
持ってはいない。あくまで状況次第である。
私が気にしていたのは、西日本大会に参加しない
決心をしたので、その影響を心配してのことである。
参加を決意しておれば、今ごろは相当目の色変えて
練習に励んでいるはずだからである。なにも不参加を
選んだからといって、やはり気が抜けていると指摘している
のではない。全日本を意識して、気を入れて練習している、
例年の2倍は気を入れている、と自覚していると、反発を
買うような予想さえしている。問題は気持ちの持ち方は
ある程度意欲の問題として取り組むことができるのだが、
ついつい気持ちばかりに意識が向かって、テニスの内容に
意識が向かない、ことになるのではないかと、疑わない
可能性、いや蓋然性を言いたいのである。つまり、いま
どのようなテニスがテーマとなっているのか?を第一に
意識しているのかどうかと、問いたいのである。
手打ちになっている。脚と腰を、胸を腹を使ってはいない。
後衛のストロークは先ず第1番だが、前衛のストローク、
レシーヴから始まる一本一本である、そしてスマッシュが
弱い、さらにはヴォレーである。特にヴォレーは、一本一本が
大切なのだ。守りの一本、相手の意図に対応する一本、
流れ弾のような一本、勝負の一本、これらの重みの違い、
試合の流れの中での意味の内容、結局はどのようなテニスなのか、
どのように戦うのか、どうやって勝つのか、と直接つながっている。
ここを理解してプレーする、これを練習していなくてはならない。
これが見えない。練習を練習しているだけ。時間が勿体無い。
テニスをする時間は、わずかしかない。上達にはどれほど
練習が必要か、次官が不足している。合理的な練習だから、
ミスの時間を、上達する時間をたっぷりとらねばならない。
合理的という言葉は、時間が不用を意味することはない。
この間違いがある。
すべてのスケールが、小さく弱い。手打ちとは、このことだ。
まとめたとはこのことだ。悪くはないが、目的を忘れているとは
このことなのだ。
声が出ない。出せない。これも目的を忘れた証拠となる。
FSに決意が表れていない。いや表せていない。これでは
テニスにならない。ロブが振り回しになっている。これはロブではな
い。
ロブはペアで打つものだ。
明日は、雨が降るまで、夏のテニスをテーマに、自分の能力を
賭けて思いきり励んで欲しい。
「人間は自然的には利己的であるか、あるいは単に局限
された寛仁を付与されているに過ぎない。したがって、
赤の他人の利を計る行動を履行するのでなければ
代償的利益を得る希望が無いと見るときを除いては、
容易にそのような他人の利を計る行動を履行するように
誘致されないものである。ところで頻繁に起こることであるが、
かような相互履行は同じ刹那に完了することができない。
したがって一方は、他方へ与えた好意の返しを実際に
受けられるか否かについては不確実のままに甘んじて
留まらなければならない。しかるに、人間の間の道徳的
腐敗は極めてひどい。したがって一般的に言えば、
かような他人の感恩に依存することは極めてわずかな
保証になるだけである。かつまた、上の場合では、
恩恵を施す者は自利を心のうちで見て恩顧を施すと
想定されている。したがって、このような恩顧の施し方は、
責務の念を抹消するとともに、利己心の具体例ともなる。
そしてこの利己心こそ、背恩の真の母なのである。」
「その方法が無益であることが明白である場合に、
いったいなぜ労働者はストライキをおこなうのか、と
問われよう。単純明瞭である。労働者は賃金の引き
さげ、さらにはこのような引き下げの必然性にたい
してさえも、抵抗しなければならないからである。
労働者が黙っていると、このような状況を認めること
になるだろうし、好況期には労働者を搾取し、不況
期には飢えさせるブルジョアジーの権利を認めること
になるだろうからである。すべての人間的な感情を
まだ失ってしまったのでない限りは、労働者は
このようなことに抗議しなければならない。また
彼らがまさにこのようにしか抗議しないのは、彼らは
イングランド人であり、行動をもって抗議する実践的な
人間であって、ドイツの理論家のように、・・・・眠り
続ける、といったことはないからである。イングランド
人の現実的な抗議は効果がある。・・・・労働者間の
競争が妨害され、もはやブルジョアジーには搾取
されないと全労働者が決意すれば、それで所有の
帝国は終わりである。労働者がもはや売買されは
しないと決断するならば、・・・今日のすべての
経済学と賃金法則は終わりである。」
前は、デイヴィド・ヒューム「人性論」第三篇1740年
後はフリードリッヒ・エンゲルス「イギリスにおける
労働者階級の状態」労働者運動1845年
の一文であるが・・・・。江戸時代のわれわれの祖先も
なかなかの論を張っていたと思うと、現下の新聞、
テレビのニュース解説は、1苦84のような・・・・
平安貴族の政治がどうだったのか、道長なんて・・・
だろうか。貴族なんて・・・だろうか。
江戸時代の幕府政治、幕藩体制がどうだったのか、
封建制だから・・・・、身分制だから・・・・、現代
政治の民主政治に比べればとてもひどいものだったのか。
ひどいとか虐げたと非難するだけなのか。
そのような意味しかないのか、どうも疑問に思う。
ヒュームやスミスが共感や良心を言って社会性を
基準にした発想が妥当なように思うのだが。
風刺が流行ったのはいつごろなのか。
いつでも流行ったのではないかと考えるが、
サイエンスとして研究はどう答えるのだろう。
何度も書いて食傷気味ではあろうが、
漫才や落語、漫談や声色・生態模写など
時の権力をよく批判していた。批判の歴史を持っている。
やっかみもあるし、羨ましさも大いにある。
その裏返しの、冷やかし根性、揚げ足取りも
あるだろう。しかし新聞がラジオがこれらを
はなから押さえにかかったであろうか。それでは
新聞は売れなかった、ラジオは聞かれなかったのだ。
テレビも結構批判精神に富んでいた。「判決」
などというドラマはそれが災いしたほどと評された。
マスコミなる世界が生まれたのは産業革命以降だろうか。
噂話はいつでもあっただろう。
人は情報で生きる。聞き耳を立てるのは人ならばこそではないか。
新聞、TVが、それに甘んじてては、存在意義が無い。
水準が低すぎる。いや、マイナスではないか。
存在が悪となる。善となるべしだろう。せめて悪とならない
ようにすべきではないか。噂の尻を追っかけているだけでは、
善とは言えまいに。善と言い張っているなら、誰かが
引導を渡してやらねばならないのではないか。
辺見さんは「世間の声がマスコミ(とくにテレビ)報道と
相乗しつつ勢いをいやまし、・・・」と書いた。これこそが
今回の文章の骨だと主張なさるのかな?
朝日新聞は、何故今この文を掲載したのだろう。
辺見さんより、新聞社の魂胆に疑いの目を向けたい。
といっても、辺見さんの書きぶりには、光る美しさがない。
意見は異にしても、美しさは魅力として感じられる。
毒々しいあまり目立たぬ刺やざらつき、あるいは
粉や汁が相当に含まれているように感じるのだが。
そして結局人を信用しない、認めない、独り善がりを、
さりげなさに含まれる鋭さという言葉を誇って酔ってし
まって気付かない。
まあ本人はそんな生き方ができるというので良いが、
新聞社の方は間違っているだろう。ならば、辺見さんは
その間違いの方を指摘するべきだった。せめて
村上さんのようにできたのではないか。ほとんどの
不満は実は報道の水準にあるのではないか。それをしも
日本人の水準と言うなら私の方が間違ったのだ。
そんな辺見さんなら誰も読むまいにと。作家とは
何か、この点から問い直すべきだからだ。
同じ紙面に載った「私の視点」二本の投稿文も
投稿者本人への疑問より、掲載した新聞社の
胆を疑う。
岡本光雄 全国町村議会議長会議事調査部長の
「通年議会 議員活動と報酬考える契機」
民主主義とは何か、を考えれば、住民参加の機会を
広げる議会活動などという言葉を超える発想が今
求められているのではないか。住民の怒りを怒りとしない
仕掛けが作動していると解すべきだろうに。
作田学 NPO法人日本禁煙学会理事長の
「受動喫煙 価値観ではなく人権の問題」
先に投稿されたジャーナリスト斎藤貴男さんの
議論に反論を述べたもの。基本的なことが
欠けている、と命を守る基本的人権説を。
まあそうなのだが、タバコで死ぬと人権を
言うべきか。言うべきではあっても、それだけか。
世間が一色に染まると、
「考える個人はそれに恐れをなして口をつぐむかちじこまってしまう
のである。ときには凶悪事件被告人の弁護側まで、世間から
“公共敵”呼ばわりされたりもするのだから、まるで悪しき
社会主義なみである。世間は新世紀に入ってさえ、じつは
まったく社会化していないのである。
EUの死刑廃止宣言の趣旨を、加盟条件に死刑廃止が
入っていることを、欧州好きの日本人のどれだけが知って
いるのか。「死刑くらいこの国の日常と文化とそれらのすさみに
うまく融けこみ、よくなじんでいる国家的儀式はない。
死刑はだれかによって周到に政治的タイミングが選ばれ、
いわばひそかに“演出”されている。セケンはむしろ
知らされないことを望んでいるかのようだ。実相は
知らされずに、しかし、殺(や)って欲しいのだ。
セケンを背にした死刑という表現はかくも繊細であり、
陰影に富み、これを美とするか醜とするかべつにして、
あくまでもジャパネスクなのであり、私たちの心の
ありようにしんしんとつながっている。・・・・
今日もまた私はふうふういいながら犬のトイレを
掃除する。犬と目が合う。私はなごみ、同時に
ぞっとする。日常がこれでよいわけがない。そう自答する。」
こういう文を私は読みたくない。感情が害されるからではない。
どこか、筋が理屈に合わないと感ずるからだ。いや、理屈は
成り立っていないのではないが、文句も言うべきと思わないが、
どこか無臭を条件にしているとか、条件なるものを隠している
とか、何でも条件にしているとか、と感じさせる筋との
印象を持ってしまうのだ。結果と原因がひっくり返って
いるのではないかとあやしむのだ。
テニスでは、こんなテニスはこちらの力を萎えさせるものだ。
ずっとこちらの動きを眺めて、どこかつけこむ隙を
探している。自分の側のテニスはない。いや相手の
隙をすべて自分のポイントにするテニスだ。だから
倒すには想像以上のエネルギーが必要だが、そんなにしてまで
勝とうするほど意欲が湧かないのだ。
誠に残念なことですが、
昭和40年入学の橋長静江さんが
去る16日にお亡くなりになったとのことです。
詳しいことは分かりませんが、
私に連絡が入りました。お嬢さまが
発信されて間接的に回ってきました。
お尋ねは、同期の旧姓松井久美子さんに
連絡をとりたいとのことなのですが、
連絡先が分からないので教えてもらいたい
とのことだったのです。
どなたかご存知の方がおられましたら
お教え願いたいのですが。よろしくお願い致します。
電子メール、電話連絡、何でも結構です。
麻田まで、ご一報下さい。
最近になく風邪をひいて発熱して寝込んでいました。
数年ぶりでしょうか。足を痛めたり、腰を痛めたり、
その上発熱したりです。来週までコートへは出て行けません。
どうも申し訳ないことです。
この土日は京都大会ですね。夏に向けて
少しでも進展する姿を確かなものとするよう
正しい、そして粘り強いテニスをして下さい。
とくに何かを書くこともないのですが、どこか
気が滅入ってしまう、あるいはなぜとこだわってしまう
種になるので・・・・・
昨日の朝日新聞、朝刊15面オピニオンの頁です。
作家 辺見庸 さんの「寄稿」です。
題名は「犬と日常と絞首刑」です。見出しは2つあります。
「国家“演出”の儀式 この国に融けこみ 個人は口つぐむ」
「容量こえる悲しみ<なかったこと>に これでよいのか」
辺見さんは、死刑廃止論者だそうです。飼い犬の下の世話を
やいているときに、昼下がりのTVニュースに、その日の
午前中に三人の死刑が執行されたと報道されたのを、
背中越しに聞いた。犬の糞をつまんだ姿勢にショックを受けた。
恥辱か罪の影が胸裏をかすめた。そして死刑問題の大事な
ヒントを得た気がした。心底ぞっとした。
「死刑執行の報にたまゆら暗たんとするする人はいるだろうが、
しかし、ほどなく日常は完ぺきに復元することを、じつはだれも
がわきまえている。この問題を・・・・・・この国のみんなが暗黙
のうちに弁別している。そういったある種ジャパネスクなたちい
ふるまいこそ、私たちの日常に滑らかな階調と無意識の
すさみをもたらしているのではないか・ヒントとはそいったことであ
る。」
死刑がすでに法以前の自然の掟として存在していたらしい。
人類史上“普遍的”な行事だったのだ。いまさしあたり強引に
演繹できることが二つある。一つは、日本・中国・北朝鮮・イラン
などの死刑制度は、共同体のことわりに根ざした永きにわたる
人類史的知恵と根拠がある、という考え方。もう一つは、日本・
中国・北朝鮮・イランの死刑制度は、原始共同体と本質的には
大差ない野蛮性をあらわに残すもので、早急になんとしても
克服すべきであるとする思想である。
日本で死刑制度廃止は簡単では無い。しかし不思議なのは、
滑稽なほど欧州かぶれの日本人が、国内で凶悪事件が
起こる度に、非言語系の感情的閉域=世間に立てこもる、
あげく「犯人を極刑に!」の声が世間に響くことだ。
(ちょっと長くなりました。一旦休憩して)
ぎっくり腰になったことがないので、もう1つ
確信はないのですが、腰を支える筋肉あるいは
腱が寝違えた首のようにおかしくなって
腰をうまく使えなくなりました。ずいぶんくた
びれたという実感があったので、腰の調整を
しようと寝転がって腰のあたりの筋肉を
次々と動かしているとがくんがくんとかなりの衝撃を
伴なっておかしな動きをするではありませんか。
起き上がろうとすれど起きあがれず、力が入らない
もしくは痛みを伴なう激しく腱が引っ張るなど
壊れた機械のように動きがおかしくなってしまいました。
12日の夜のことです。困った13日は仕事が
臨時に入っている。どうなるのか?なんとか
ギクシャクした動きですが自由にならぬわが身を
苦労して運んで仕事を済ませました。帰って
風呂に入るとずいぶんと楽になりました。14日
今日ですね、朝起きるとかなり状態はよくなっています。
ギクシャクした動きは直りました。滑らかになりました。
かわりに姿勢がおかしい。腰が曲がったまま、かと思うと
突っ立ったままになります。座っていて立ち上がろう
とするとうまく行きません。力が入らなかったり痛み
が走ったりします。でも堪え切れない痛みではないので
決心さえつけば立ちあがれます。でもできるだけ
楽に立ち上がりたい。でしばし格闘します。背中一体
背骨の周囲の筋肉や腱の調整をする必要が
感じられます。かなり内部の筋肉の不調が
外の部分に代わったので、少しの痛みに耐えれば
時間が痛みをとってくれるのではないかという
見通しを立てています。歳をとるとこういう現象も
経験するものかといまさらに感心しています。
未経験のことというものが、当然ですが、かならず
起こるものです。よきかな人生、面白きかな人生、
・・・・・・と酒を飲みたいところですが、これも控えて
(させられて)いますので、うーむ・・・・・・
このところヒュームの「人性論」が面白いですね。
ロック、ヒューム、スミスの経験論に面白さを感じています。
ルターの書いたものを読むと隔絶した世界を見る思いです。
ずいぶんと変化のある事象が矢継ぎ早に起こっているように、
意識して眺めるためだろうか、意識を刺激されるためだろうか、
いろいろと考えさせられるように思う。
昨日家内と散歩に出ると、自宅のすぐ近くに縄張りが目立つことなく
してあって警官が2、3人交通整理と何やら事故の現場測量を
していた。大きな破片などは見当たらなかったが、ちょっと
多めの濃い血の痕があった。警官に何か事故でもありましたか
とたずねるとうなずく。大きな事故でしたかと重ねて聞くと、
分からないと言葉を濁した。今日の朝刊には事故の記事が
載っていた。娘の小学校での同級生の母親が交通事故で
死亡したと。家内はショックを受け、私は救急車のサイレンなど
聞かなかったが・・・と少しばかり不審に感じた。事故に遭った
女性は60才弱のいわゆる各戸に配布物を届けるポスティング
の仕事を請け負って自転車で走っており、撥ねた小型バスは病院
利用者の送迎のためのもので運転手は年配者であった。
鳩山総務大臣は国民の声を代弁していると再任を認めぬ方針だが、
日本郵政の西川社長は続投を株主総会に提案すると
財界や構造改革路線の継承を謳う政治家連の応援に
力を得ているらしい。最大株主は与謝野大大大臣で、
最終決定権力者は麻生総理大臣だという。このところの
鳩山総務大臣の国民派の主張は、入試問題の答えなら
問題とはならないだろうが、政治家の姿勢という観点からは
多くの人が疑問を感じるものであろう。
政治の目的、政策の方向などが存在して始めて生きた政治家の
政治として論じることができる。権力者として政治の実権を
握るだけなら、勢力争いだけが関心の的で政治的不安定
は国民の不幸でしかない。
政治家だけには任せておけないが、言論・報道が政治に
無力では幸福を目指す市民活動は負担が大きすぎよう。
新聞、TVの、なかでも朝日と読売の企業精神は批判の
仕様が無くなっているのではないか。そこへNHKの
「公共放送」への意欲が失われた問題がある。
新聞の販売拡大競争、TVの視聴者迎合番組氾濫、
NHKの視聴料運営だから公共放送の逆転論理は
市民否定の統治法になっている。
それに・・・・・なんだかたいへんな数です
午前中は、あやしい天気のように見えましたが、
昼からはかなり暑く夏の晴れた天気のようになりました。
午前中は杉山部長が自身の練習も兼ねてコートに出て
来られました。午後からは、久しぶりに中道さんが、
藤原さん、小林君とともに出て来てくれました。自宅が
自転車で一走りの距離にあるとかで、ひとえに仕事の
忙しさが原因で顔を出せなかったようです。元気な顔を見て
たいへん嬉しく思いました。早速現役と一緒に練習に
加わりました。一番元気な声を出し、気迫のこもった声を
出すのが彼でした。現役学生達の方が声が出ません。
声を出せと私は思わず怒鳴っていました。わーわー
騒ぐのが目的ではありません。気迫を込めて、スポーツ
のテニスをするための声ですから、聞いて気迫が
伝われば、声が出ているのです。この感じが出せないのですね、
学生たちは。中道さんは、それが身についているのですね。
宮田さんも、林君、藤田君、そうそう中村さんも出て来てくれました。
総勢では20人を超えました。こうなると迫力があります。
コートが生き生きしてきます。
私は、すこし所用があったので3時に消えました。
それにしてもちょっと暑かったですね。バスの中では
眠たかった。冷房がよく効いていました。夏ですね。
西日本大会には参加しませんので、夏の目標は
全日本大会です。これに向けて練習をします。
正しいテニスをするように課題を設定しました。
個人戦も含め1回戦は全力をあげて全勝します。
勝てばよいのではありません。勝てなくてはならないほど、
間違いのないテニスをします。そのためには
基本のプレーをごまかしなく修得します。
どんな情況下におかれても、ミスをしないで、
一定水準のプレーを自身を持って行います。
試合は理論的に行います。原理に基づいた
テニスらしいボールコントロールで戦います。
見て納得の行く自然な気迫のこもったプレー
で戦います。試合の流れ・波もリズミカルにします。
盛り上がりのある、見ていて魅力のあるマッチを
実現します。(なんか・・・選挙演説見たいに
なってませんか・・・・・自由・友愛・民主・活力・生活者)
女子は、奈良女子大・京都女子大と合同練習を
東コートで行いました。もっとボールを身体にひきつけ、
身体が流れないようにしっかり両足で踏ん張って、
ラケットの面をしっかりボール軌道に入れて一球
一球気迫を込めて丁寧にプレーすることを覚える
ように演習してほしいと、短い時間でしたが、思いました。